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近江の風土記

Vol.1

会報2018年 春号掲載
―BKC 近江の往昔(いにしえ)―

「近江の都」といえば、667年に天智天皇が築いた近江大津宮が思い浮かぶ。白村江の戦に敗れ、唐・新羅の侵攻が懸念される中で、交通至便の近江の地を選んだというのが、一般的な理解であろう。確かに近江は、古代の主要街道である七道のうち、東に向かう東海道など三道がこの国から発する要地で、しかも、その中央に位置する琵琶湖は、物資流通の面でも重要な役割を担っていた。日本海沿岸地域から敦賀を経て湖北へと至り、琵琶湖の水運を利用して畿内へと運ばれたのである。同時に、朝鮮半島からの渡来人や文物も同じ経路を辿り、渡来人は沿岸地域から畿内へと向かう途上に新たな居住地を定めた。今日でも近江には、様々な伝承と共に、その痕跡と見られる地名が多く遺されている。

 応神朝に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)の子孫とされる秦(はた)氏は、平安京の西を流れる桂川(保津川)の治水と灌漑を進めたことで知られ、その本拠に太秦(うずまさ)の地名を伝えるが、近江にも同じく秦氏が居住していた。湖東の中央部に位置する秦荘(はたしょう)の地名はまさにその名残で、原野を開拓して田畑を設(しつら)え、機織りや製陶などを営んだ。のみならず、鉱山の開発や金属の精錬・加工にも、秦氏など渡来系氏族の知識や技術が活かされたことは間違いない。奈良時代の権力者・藤原仲麻呂は近江の鉄穴(かんな)を朝廷より賜ったが、742年には勢力家が近江の鉄穴を貪っているとして禁断が命じられている。その翌年、大仏造立(ぞうりゅう)事業が近江・紫香楽(しがらき)で開始されたというのも、このような金属資源や渡来人の技術と無関係ではない。まさに近江は最先端の産業地域であり、国として最上級の「大国」という扱いを受けたのである。

 BKCの展開する草津市野路は、東海道が近くを通り、中世には野路宿という宿場が所在した。そしてまた、BKCの地は一大製鉄・製陶施設であり、木瓜原(ぼけわら)遺跡に因んで名付けられたスタジアムの地下には、遺跡の一部が保存されている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

BKCの地下に保存されている木瓜原遺跡。予約をすれば学生や市民が見学することもできる。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史