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近江の風土記

Vol.2

湖国が産んだ英雄 —その1—

 日本史の教科書に名を遺す古代の著名な人物、その中には、湖国近江の出身者、近江の縁者が多く含まれている。

 最初の遣隋使、と言えば、『隋書』では西暦600年、『日本書紀』では607年に派遣されたとされるが、後者に記録される遣隋使・小野妹子は、まさにその代表的存在である。小野氏は湖西の地・近江国滋賀郡小野村(現・大津市小野)の発祥とされ、比叡山を隔てた山背(やましろ)国愛宕(おたぎ)郡小野郷(現・京都市左京区上高野)や、同国宇治郡小野郷(現・京都市山科区小野)も本拠としていた。弘仁6年(815)嵯峨天皇の命により編纂された『新撰姓氏録(しんせんしようじろく)』によれば、孝昭天皇の子・天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)命(『古事記』では天押帯日子(あめおしたらしひこ)命)を祖とする氏族で、小野妹子が近江の小野郷に住んだことからその氏名(うじな)としたという。現在も大津市小野の地に、小野妹子の創祀と伝える式内社・小野神社が所在し、また近隣の唐臼山(からうすやま)古墳は、小野妹子の墓という伝承をもつ。

 小野氏は、遣新羅使に任命された者や、大宰府の官人となった者など、外交に携わったと目される人物に加え、文化の面でも際だった存在として知られる人物を輩出している。

 奈良時代に大宰大弐に任ぜられた小野老(おののおゆ)の詠んだ万葉歌は、平城京に華開いた天平文化の風情を偲ぶ歌として、今日でもよく口ずさまれている。

 青丹(あおに)よし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
薫(にお)ふが如く 今盛りなり (『万葉集』3―328)

 また、平安初期の官人で遣唐使にも任命された小野篁(たかむら)は、勅撰漢詩集である『経国集』などに多くの漢詩を残し、その孫にあたる小野道風(とうふう)は、藤原行成・藤原佐理(すけまさ)と共に「三蹟」と称され、和様の能書家として知られる。先述の小野神社の境内に、小野篁を祀った小野篁神社、またその飛地境内に、小野道風を祀った小野道風神社があり、共に南北朝時代の本殿で国の重要文化財に指定されている。

 琵琶湖沿岸という水運の技術を必要とする地であり、周囲に多くの渡来人が居住する最先端の文化地域であったことなど、湖国の環境がこの一族の特性を育んだと言って過言ではなかろう。

 小野妹子が2度目に隋に渡った6年後の614年、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が最後となる遣隋使に任命される。隋から唐に替わった後、最初の遣唐使に任命され、630年に唐に渡ったのも、犬上御田鍬である。また、斉明天皇元年(655)には、犬上白麻呂という人物が遣高句麗使に任ぜられる。この犬上氏もまた近江ゆかりの氏族で、近江国犬上郡(現・滋賀県犬上郡、彦根市)を本拠とした。現在、同郡豊郷(とよさと)町に犬上神社があり、犬上氏の祖とされる稲依別(いなよりわけ)王(日本武尊(やまとたけるのみこと)の子)を祭っている。一説には、犬上氏は百済からの渡来人に連なるとも言われるが、隣接する愛知(えち)郡には依智秦氏(えちのはたうじ)という渡来系氏族が居住し、湖東の地域を開発した。小野氏と同様に、このような環境が、他国との交渉に当たる任を帯びた官人を産み出したと言うことができよう。

 小野妹子、犬上御田鍬という名を知っていても、共に近江の氏族の出身であるということは、意外と意識されていない。大きく変動する7世紀前半の東アジアで、倭国の命運を背負って中国大陸に渡り、隋・唐という大帝国と渡り合った二人の「英雄」は、紛れもなく当時の最先端地域というべき湖国近江の申し子であり、彼らがもたらしたものは、政治・文化の両面で、日本の国家形成に大きく寄与するところとなるのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史