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近江の風土記

Vol.6

会報2018年 夏号掲載
【第二シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
ー歴史の舞台となった旧跡ー

 湖国近江は日本列島の中心に位置し、大和の藤原京・平城京、山城の平安京から東国へと向かう主要な官道(東海道・東山道・北陸道)が通っていた。真に交通の要衝にあり、日本史上著名な出来事が数多く生じる歴史の舞台となった。

 琵琶湖南端に近い現・大津市錦織(にしこおり)の周辺に、天智天皇が営んだ近江大津宮が所在した。琵琶湖西岸に沿って北上すれば、比叡山の表玄関で日吉神社が所在する坂本に至る。さらに進めば、比良山の東麓から白鬚神社(しらひげじんじゃ)の位置する高島町鵜川(うかわ)の地を経て、三尾崎(みおがさき)に至る。『日本書紀』によれば、ここに継体(けいたい)天皇の父・彦主人(ひこうし)王の別業(なりどころ)があり、天皇もこの地で生誕したという。6世紀初頭に皇位についた継体天皇は、越前国三国から迎えられた応神天皇五世の孫と伝える謎多き天皇で、そこに王朝の交替を想定する見解も呈されている。

 同時にこの地は、672年に生じた壬申の乱、764年の恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂)の乱に際しても、戦闘の舞台となった。

 さらに北陸道を北上すれば、湖上交通の北の拠点であった海津(かいづ)で琵琶湖と別れ、国境峠を越え越前に入る。この地点に、三関の一つである愛発(あらち)関が置かれた。北陸道を逸れて湖岸沿いに進むと、桜の名所として知られる葛籠尾崎(つづらおざき)から菅浦(すがうら)に至る。ここには、淳仁(じゅんにん)天皇を祭神とする須賀神社があり、地元の言い伝えでは、恵美押勝の乱後、天皇はこの地で隠棲したという。また、近年沖合の湖底遺跡の調査が進められている。

 近江大津宮跡地から逆に湖岸に沿って南下すると、天台宗寺門派の本山である三井寺(園城寺[おんじょうじ])があり、湖南の名刹・石山寺方面へと向かう。ここは琵琶湖の南端部で、湖水は瀬田川を通って流れ出る事になるが、瀬田川河口の地には、瀬田橋(瀬田の唐橋)が所在する。この橋は、7世紀の壬申の乱から15世紀の南北朝争乱に至り、古代・中世を通じて多くの戦乱の舞台となり、攻防が繰り広げられた。湖東地域を湖岸に沿って北上すると、BKCのある草津を経て、栗東で東海道と東山道が分岐する。伊勢に向かう東海道は、伊勢神宮の祭祀に奉仕する斎宮の往来する街道としても知られた。東山道は守山から近江八幡、安土、彦根へと続き、この辺りは、16世紀の戦国期から織豊(しょくほう)期(織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代)にかけて、目まぐるしい展開を見せた地域である。古代の東山道は米原で琵琶湖と別れて東に向かう。美濃との国境に聳(そび)える伊吹山は、東征から帰還した日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの地で落命した事で知られるが、東山道には、美濃に入って不破(ふわ)関が置かれ、やはり壬申の乱時に攻防が見られた。その900年余りのち、1600年にこの地関ヶ原で天下分け目の戦が繰り広げられたのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史