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摂津の風土記

Vol.4

摂津ゆかりの人々
行基とゆかりの寺院

 大阪にゆかりの深い古代史上の人物、と言われて、まず思い浮かぶのは、奈良時代の僧行基である。今なお、多くの人々に「行基さん」と親しまれ、その足跡を辿る会も開かれている。絶対数の少ない古代で、行基については比較的史料に恵まれ、また関連する施設や地名等で今日に伝わるものは少なくない。ただ、伝承に基づく部分も大きく、史実であるか否かの判別は困難を伴うが、通説的には、概ね以下のように理解されている。

 行基は、和泉(当時は河内)の大鳥郡の出身、高志才智(こしのさいち)・蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)を父母として、天智7年(668)に誕生した。父の高志才智は、応神朝に来日した王仁(わに)の後裔とされる渡来系氏族で、大陸・朝鮮半島系の高い文化を誇った南河内の地域で育ったと考えられる。その父と同じく王仁の後裔氏族である僧道昭に従って、行基は天武11年(682)に出家する。道昭は、入唐留学を修して帰国ののち、各地を遊行したと伝わるが、行基もまたこれに倣い、多くの僧俗を従え、各地で土地開墾や道路整備等の社会事業を展開する。

 行基の活動は、出家者を俗人から遠ざけて清浄性を維持させようとする朝廷の意向に反し、僧尼令(そうにりょう)の規定に抵触するものであったことから、霊亀3年(717)これを禁断する詔が発せられる。さらに、養老6年(722)には、当時行基が活動の拠点とした平城京下の喜光寺(菅原寺)近辺での動きを規制するような命令が下され、こののち行基は、河内・摂津、あるいは山背といった大和以外の地域に、活動の場を転じるようになる。

 このような朝廷の姿勢に変化が生じるのが天平3年(731)で、行基に随従する高齢の信徒の得度が許可された。以後、彼とその集団に対して宥和的な姿勢をとるようになったことから、行基の活動は更に活性化し、のちに行基四十九院と総称される寺院を各地に建立し、また地溝の築造や架橋、さらには、布施屋と呼ばれる窮民救済施設の設置といった事業を推し進めた。

 天平12年(740)、平城京を離れた聖武天皇が山背国に恭仁京(くにきょう)の造営を試みた際に、行基は技術と労働力を提供してこれに参画し、また同15年に盧舎那大仏造立の詔が発せられ、近江・紫香楽で事業が始まると、行基は積極的に協力したと伝わる。その功績に対して大僧正という空前の地位が与えられた行基は、同21年、亡くなる直前に、聖武天皇と光明皇后に戒を授けたという伝まで残されている。

 単なる布教活動だけでなく、社会事業まで積極的に展開した行基とその集団は、社会の発展に貢献したとして後世に語り継がれ、各地にその足跡を残した。茨木市でも、キャンパスの東南、天王に位置する蓮花寺、東方・水尾の弥勒堂や勝光寺(もと西方浄土寺)、西南の摂津市との境に所在した三宅廃寺(常楽寺)、北方・東福井の真龍寺といった寺院が、天平年間に行基の創建にかかるとされている。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史