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山城の風土記

Vol.4

【第一シーズン】古社にまつわる山城・京都の往昔
御霊を祀る神社

 都が平城から長岡へ遷った翌延暦4年(785)、造営の責任者であった藤原種継が暗殺される。捉えられた実行犯の証言などから、桓武天皇の実弟で皇太子の早良(さわら)親王が一味として拘束され、乙訓寺に幽閉された。淡路への配流と決し、護送の途中、無罪を訴えて飲食を絶っていた早良親王は死去したが、赦されることなくその亡骸は淡路に送られ、代わって桓武天皇の子・安殿(あて)親王が皇太子とされた。

 延暦8年、桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ)が亡くなり、次いで翌年、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)が薨去すると、早良親王の墓に守人が置かれ、さらにその2年後、安殿親王の病を占ったところ、早良親王の祟りによるものとされた。以後その墓の整備など対応策が続いて講じられ、延暦19年には早良親王に天皇号(崇道天皇)が贈られるに至った。

 この後、天皇やその近親者の病、さらには飢饉・疫病といった社会不安に際し、怨霊の所業とする観念が広まり、様々な鎮撫の手段がとられた。貞観5年(863)には、疫病の流行により、崇道天皇や、承和の変で死に至らしめられた橘逸勢(たちばなのはやなり)ら6名の霊を祀る儀礼が、大内裏南の神泉苑(しんせんえん)で初めて催された。

 神格化された故人の霊は御霊(ごりよう)と呼ばれ、これを祀る儀礼を御霊会(ごりようえ)と称し、社会異変などの際に盛んに行われた。怨念鎮撫を目的とする臨時の行事であったが、やがて御霊をその強大な威力で都を護る存在と位置付けるようになり、常設の祭祀施設が出現する。現在、京都御所を挟むように、その南北に上御霊神社と下御霊神社が所在する。祭神は八所御霊という崇道天皇等の御霊で、貞観5年の御霊会を両社の創祀としている。

 同様に、神泉苑御霊会に関連するものとして、祇園・八坂神社がある。現在は素戔鳴(すさのお)命・櫛稲田姫(くしいなだひめ)命・八柱御子神(やはしらのみこがみ)等を祭神とする神社であるが、もと祇園感神院と呼び、祇園天神・牛頭(ごず)天王を祀り、当初は興福寺、のち延暦寺の別院として維持されていた。明治維新期に八坂神社と改称する。その祭礼が京都を代表する祇園祭で、祇園御霊会と呼ばれ、貞観11年(869)に神泉苑で催された御霊会で、66本の鉾を立てて儀礼が挙行されたのが始まりと伝える。

 ところで、同じく御霊を祀る神社として、北野天満宮を知らない人はあるまい。祭神は、言うまでもなく菅原道真、学問の神様として多くの学生・生徒らの信仰を集めている。この菅原道真は、9世紀末、時の宇多天皇に重用され、右大臣の地位にまで昇った。藤原良房(よしふさ)から基経(もとつね)へと受け継がれた藤原北家の主導体制下で、その学識により立身し、基経の嫡男で左大臣の時平と並ぶ立場にあったが、延喜元年(901)、宇多天皇の譲位を受けた醍醐天皇の代に、時平の讒言にあって大宰府に左遷され、2年後に彼の地で死去する。

 菅原道真には、死後天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)という神格が付されたが、疫病や干害が相次いで起こり、道真を讒言した藤原時平は延喜9年に死去し、さらに延長6年(928)、内裏の清涼殿に落雷があり多数の死傷者が出た。これらの災厄は菅原道真の怨念によるものと取り沙汰され、天慶5年(942)には、右京七条に住む巫女の奇子(あやこ)(文子)に天神が託宣して祭祀を要求する。やがて、北野の地に社が建立され、天神を奉祭して北野天満宮が成立したという。菅原道真の生涯、天神となって被害をもたらす様子から、北野天満宮の創建に至る経緯を描いた『北野天神縁起絵巻』は、鎌倉期の代表的な絵巻物として知られている。

 現在の社殿は、江戸初期の慶長12年(1607)に造営された権現(ごんげん)造りの建造物で、国宝の指定を受けている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史