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山城の風土記

Vol.9

【第二シーズン】古寺にまつわる山城・京都の往昔
大覚寺

 平安初期に即位した嵯峨天皇は、文章経国の思想に基づき、漢文学などの学問を奨励し、弘仁文化と呼ばれる文化を現出した。古代律令制の時代で、もっとも安定し栄えた治世と評価する向きもある。その嵯峨天皇が、弟の淳和天皇に譲位ののち内裏を退き、隠居生活を送った離宮が、大覚寺の前身・嵯峨院である。

 兄の平城天皇から譲りを受け即位した嵯峨天皇であったが、のち平城上皇と対立し、争乱の危機が生じる。これを防ぎ止めた嵯峨天皇は、同類の異変が再発することを危惧し、譲位後は政務に関与せず、当初冷然院、さらに嵯峨院に移り住み、この地で崩御する。

 嵯峨上皇崩御の直後に生じたのが承和の変(842)で、皇太子恒貞(つねさだ)親王が廃され、代わって道康親王(のちの文徳天皇)が立太子する。この異変には、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)が深く関わっていたとされるが、廃された恒貞親王の生母である正子内親王(淳和天皇の皇后、母は橘嘉智子)は、その母を怒り恨んだという。

 嵯峨院を相続した正子内親王が、貞観18年(876)に嵯峨院を寺院として大覚寺と号し、出家していた恒貞親王、すなわち恒寂(こうじやく)入道親王を開山とした。その傍らには済治院という僧尼の医療施設まで設けたが、大覚寺は近隣に所在する嵯峨天皇・橘嘉智子・正子内親王の陵墓を管理すると共に、嘉智子が建立した檀林寺も管轄した。

 鎌倉時代になると、幕府の後押しで皇位についた後嵯峨天皇が、その皇子である後深草天皇、ついで亀山天皇を即位させ院政を行ったが、やがて出家して大覚寺に入った。院政を行う治天の後継を後嵯峨上皇が定めずに崩じたため、後深草天皇・亀山天皇という兄弟の間で、争いが生じることになる。亀山天皇の皇子である後宇多天皇が、譲位後大覚寺に入り、この地に仙洞御所を設けて院政を行ったことから、後深草天皇の持明院統に対してこの一統を大覚寺統と呼び、両統は天皇や治天の地位を巡って対立した。この後、幕府の裁定で両統から交替で天皇位を受け継ぐ原則が定められ、後醍醐天皇による討幕の動きや鎌倉幕府滅亡後の南北朝の動乱を導くことになった。

 なお、後宇多上皇は大覚寺伽藍の整備にも尽力し、同寺の中興と称された。

 半世紀近く続いた南北朝の動乱は、明徳3年(1392)、将軍・足利義満らの働きかけで、南朝の後亀山天皇が吉野より上洛して、北朝の後小松天皇に神器を渡すという形で収拾がはかられたが、その舞台となったのもこの大覚寺で、退位した後亀山天皇は大覚寺に入り大覚寺殿と呼ばれた。

 創建より皇室と緊密な関係をもって歴史を刻んだ大覚寺は、現在真言宗大覚寺派の本山で、嵯峨天皇の直筆にかかる般若心経を所蔵している。応仁の乱の戦火で伽藍は荒廃したが、近世に復興が図られ、中心部に位置する宸殿は、江戸初期に後水尾天皇から下賜された寝殿造りの建物である。また、伽藍に接する大沢池は、嵯峨天皇が離宮を営んだ際に造った人工の池で、中秋の名月に舟を浮かべて観月の夕べが催される。

 11世紀、摂関政治の全盛期に大納言の地位にあった藤原公任(きんとう)が、大覚寺の庭園にある枯滝(名古曽の滝)の光景を詠んだ歌が、百人一首に取り上げられている。

 滝の音は 絶へて久しくなりぬれど なこそ流れて なほ聞こえけれ

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史