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山城の風土記

Vol.11

【第三シーズン】平安京外の名所・旧跡
長岡京・山崎

 平安京の西南、摂津国に至る淀川北部の地域に、乙訓(おとくに)郡が所在した。現在、JRや阪急の京都線が京都と大阪を結んでいる地域である。

 長岡京は、延暦3年(784)に平城京から都が遷された地である。既に「御霊を祀る神社」の項で触れたように、時の桓武天皇はこの地を新たな都と定めた。それまで平城京の副都として摂津に難波京が置かれていたが、これを廃し、長岡京を唯一の都とした。新京の設営に当たっては、平城京や難波京の資材が運ばれ、利用されたことが認められる。

 一説には、乙訓の地は、桓武天皇の母で百済系氏族の血を引く高野新笠(たかののにいがさ)ゆかりの地域とされる。とすれば、山部(やまべ)王すなわちのちの桓武天皇は幼少期をこの地域で過ごした可能性があり、早くから山背に居住していた秦氏など渡来系氏族の影響で、文化と経済の両面で発展していたこの地が選ばれたと推察される。そしてまた、大河と接していない平城京と異なり、南に淀川が流れるこの地は、流通の面でも至便の位置にあった。平城遷都以来74年を経てとり行われた大事業であったが、そこには、桓武天皇が天智天皇の曾孫に当たり、天武天皇の皇統から天智天皇の皇統へと替わったことを天下に標榜する意図も存在した。

 ところが、遷都の翌年に生じた藤原種継暗殺事件に際して非業の最期を遂げた弟・早良(さわら)親王の霊障に苛(さいな)まれるようになり、長岡京は僅か十年で廃都となる。近年、その故地に該当する向日市や長岡京市で発掘調査が進められ、朝堂院・大極殿・内裏といった長岡宮の構造が、相次いで解明されている。

 既に長岡遷都以前よりこの地に所在した寺院として、郡名を冠した乙訓寺が、今日でも法灯を伝えている。この寺院は、先述の事件の際に早良親王が幽閉された場所で、のちには、唐より帰朝した空海が、高雄山寺(現・神護寺)からこの寺院に入り、別当に任ぜられ寺の修造に尽力した。そして、まさにこの寺院で、弘仁3年(812)に、平安仏教の祖とされる二人の高僧、最澄と空海の出会いが生じた。ここで空海から胎蔵・金剛の両界曼荼羅を見せられた最澄は、程なく高雄山寺で空海から密教の灌頂を受けることになる。

 長岡京の故地より淀川に沿って南に進むと、山崎の地に至る。天王山が淀川に迫り、対岸に石清水八幡宮の所在する男山を望むこの地は、摂津国と接する交通の要衝であった。伝えによると、かつて道昭がこの地に橋を設けたのにならい、行基が神亀2年(725)に山崎橋を架けたという。長岡遷都に際してもこの橋の修造が試みられ、桓武天皇自身、この地の港・山崎津に行幸している。

 山崎の地には駅(うまや)が置かれたが、桓武天皇やその息・嵯峨天皇は、隣接する摂津国の水無瀬(みなせ)に遊猟に赴き、この地に滞在した。嵯峨天皇は駅を行宮とし、さらに離宮を営んで漢詩を詠んだ。漢詩の表記に因んで、山崎の離宮は河陽(かや)宮(離宮)と称され、山崎駅もまた河陽駅と呼ばれた。この離宮は、中世油座の本所として知られる大山崎離宮八幡宮の地にあったと考えられている。

 嵯峨天皇御製 河陽の花

 三春二月河陽県 河陽は従来(もとより)花に富む 花は落つ能(か)くも紅に復(はた)能くも白し 山の嵐頻りに下(おろ)して万条斜(なのめ)なり

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史