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山城の風土記

Vol.12

【第三シーズン】平安京外の名所・旧跡
山科

 平安京の所在した京都盆地から東山連峰を越えると、山科盆地に至る。山背(城)国の一角に位置するこの地は、平安遷都以前は北陸道・東山道、また平安遷都後は東海道を含めて、都と東国各地を結ぶ交通の要衝に位置していた。

 天智天皇により667年に都が近江大津に遷され、西隣の山科の地に著名な官人の私邸が営まれた。天皇の腹心として活躍し、その死に臨んで藤原という氏名(うじな)と大織冠(たいしょくかん)という冠を賜った中臣鎌足の山階(やましな)邸である。鎌足はこの邸で仏典である『維摩経(ゆいまきょう)』を講説する維摩会を催したが、この法会がのちに重要な国家法会の一つに発展し、またここに建立された山階精舎が平城京の興福寺の前身とされる。

 鎌足はこの邸で669年に薨去し、2年後には天智天皇が近江大津宮で崩御する。天皇は山科の御陵に葬られたが、その御陵から退散する際に詠んだという額田王(ぬかたのおおきみ)の挽歌が『万葉集』に遺されている。

 やすみしし わご大君(おおきみ)の 恐(かしこ)きや 御陵(みはか)仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 音(ね)のみを 泣きつつありてや ももしきの 大宮人は 行き別れなむ (巻2ー155)

 この山科から近江に出る地に設けられたのが、逢坂関(おおさかのせき)である。山背(城)と近江両国の境は畿内と畿外の境界でもあり、この関は、宮都防衛の重要な機能を担うことになった。蝉丸がこの関を詠んだ『百人一首』の歌は、最もよく知られている和歌の一つであろう。

 これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関

 平安遷都後の延暦16年(797)に初の征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂は、弘仁2年(811)に薨去し、天智天皇と同様に山科に葬られた。その地は山城国宇治郡来栖村と伝わるが、大正期に発掘され金装大刀や鏡(国宝に指定)などが出土した西野山古墓が、その墓と考えられている。

 山科盆地には小野という地区があり、9世紀の著名な女流歌人で六歌仙の一人に数えられる小野小町ゆかりの地とされる。10世紀にはこの地に真言僧・仁海によって曼荼羅(まんだら)寺が建立され、真言宗の流派の一つである小野流を伝えた。現在その塔頭の随心院が法灯を伝え、境内には小野小町の化粧井戸が所在する。

 その真言宗小野流の祖とされるのが、聖宝(しょうぼう・理源大師)である。聖宝は宇多天皇等の庇護を受け、東寺一長者・僧正の地位についた。この聖宝によって笠取山(醍醐山)の山上に建立されたのが醍醐寺で、延喜7年(907)醍醐天皇の御願寺(ごがんじ)となって後、山麓に豪壮な伽藍が整備された。山上の施設を上(かみ)醍醐、麓を下(しも)醍醐と呼ぶが、現存する上醍醐の薬師堂(平安期)・清瀧宮拝殿(室町期に再建)、下醍醐の五重塔(平安期)・金堂(同)・三宝院の唐門と書院(共に安土・桃山期)は国宝の建造物で、他にも多くの貴重な文化財を伝えている。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 山城 河内・摂津]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史