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近江の風土記

Vol.3

湖国が産んだ英雄 ーその2ー

 古代の近江を語る上で欠かすことの出来ない人物が、7世紀後半に近江大津宮を造営し、遷都した天智天皇である。

 舒明(じょめい)天皇を父、皇極(斉明)天皇を母にもつ中大兄皇子、のちの天智天皇は、母帝の治世に乙巳(いつし)の変と呼ばれるクーデターで、時の権力者・蘇我入鹿を暗殺する。こののち、孝徳天皇と斉明天皇の二代にわたり、実質的に中大兄皇子が政治を主導したように『日本書紀』は伝えている。

 この頃、東アジアでは、体制を整えた大帝国・唐が朝鮮半島に食指を伸ばし、高句麗の制圧に乗り出す。やがて、唐と手を結んだ新羅と、高句麗・百済の両国とが対立を深めるようになり、双方共に支援を期待して倭国に使者を送ってくる。このうち百済は、斉明6年(660)に唐・新羅の侵攻を受け滅亡するが、その遺臣である鬼室福信(きしつふくしん)が倭国に使者をよこし、百済復興のため、倭国にいた百済王子・余豊璋(よほうしょう)の返還と軍事的支援を要請してくる。これに応えて倭国は総勢5万人近くの軍勢を送るが、663年の白村江の戦いで惨敗を喫することになる。

 この頃、日本に亡命した百済遺民の一人が、鬼室福信の親族と目される鬼室集斯(きしつしゅうし)で、天智4年(665)に小錦下(しょうきんげ)という冠位が与えられて男女400名の百済遺民と共に近江の神前郡(かんざきぐん)[現・滋賀県彦根市と東近江市の一部]に配され、田地が支給される。さらに、同8年には、同じく亡命していた百済の王族・余自信(よじしん)や700余名の百済人とともに同国蒲生郡[現・近江八幡市、東近江市、竜王町、日野町]に遷し置かれることになる。現在蒲生郡日野町に、鬼室集斯ゆかりの鬼室神社があり、「鬼室集斯之墓」という石柱が所在する。

 近江国と天智天皇(中大兄皇子)との関わりという点では、その母・斉明天皇が5年(659)に近江の平浦(ひらのうら)[現・大津市北部の和邇(わに)浜の辺りか]に行幸し遊覧したという記録があり、或いはこの時に中大兄皇子も同行した可能性も存在する。白村江の敗戦後、中大兄皇子は唐・新羅の進攻を警戒し、大宰府の北に水城という防御施設を設け、対馬・壱岐から九州北部、さらに瀬戸内沿岸にかけて、多くの朝鮮式山城を築造した。さらに中大兄は、667年新たに近江に宮を築いて遷都を敢行し、翌年この近江大津宮で即位する。この遷都がいずれの地域へも移動可能な交通の要衝の地を選んで行われたことは疑いないが、多くの半島からの渡来人が配されたことで、その技術力を駆使して高い生産性を誇る地域であったことも、選定の理由として想定されよう。

 近江大津宮は、近江南西部・琵琶湖沿岸の地[現・大津市錦織(にしこおり)の近辺]に所在したことが、発掘調査の結果明らかになっている。すぐ西に比叡山があり、都の地としては狭隘な感が否めないが、どうやら天智天皇はさらに近江の別の地に新たな都を造営することも構想したようで、天智9年(670)2月には、天皇が蒲生郡の匱迮野(ひさの)[必佐郷、現蒲生町・日野町付近]に行幸して宮の地を検分したという記録が見える。とすると、その前年に鬼室集斯らが蒲生郡に遷し置かれたというのも、新都造営の布石であった可能性も存在する。

 さらに一年を遡る天智7年5月5日、天智天皇は蒲生野で薬猟(くすりがり)を行った。端午の節句に行われる薬猟は、男性が鹿を捕獲して薬となる角を採り、女性は薬草を摘んで過ごす大陸伝来の行事で、既に推古天皇の時代から行われていた。蒲生野の薬猟には、皇太弟の地位にあった大海人皇子をはじめ、多くの皇族や官人が同行したが、この時、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐり天智天皇と争った大海人皇子と額田王との間で交わされたのが、著名な万葉歌である。

 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
(額田王 巻1ー20)

 紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 
人妻ゆゑに 我恋ひめやも
(大海人皇子 巻1ー21)

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史