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近江の風土記

Vol.5

湖国が産んだ英雄 ー最終章ー

 織田信長が天守閣を築いたことで有名な安土の地に、沙沙貴(ささき)神社という式内社(10世紀初頭に成立した『延喜式』神名帳に記載された神社)が所在する。社伝によると、9世紀末に仁和寺を建立した宇多天皇の子・敦実(あつざね)親王の玄孫にあたる源成頼(みなもとのなりより)が近江国の佐々木荘に入り、その孫の常方(つねかた)が佐々木氏を名乗り、当社を氏社としたという。

「沙沙貴」という名称は、近江国蒲生(がもう)郡篠筍(ささき)郷に由来する。この神社の祭神は少彦名(すくなひこな)・大毘古(おおひこ)など四坐五神、少彦名神は記紀神話に登場する神で、大国主命の国造りを助けたとされ、また大毘古神は開化天皇の同母兄で、四道将軍の一人として北陸道に遣わされたという。阿倍臣・膳(かしわで)臣・越国造などはその子孫と伝えるが、蒲生郡を本拠とした狭狭城山君(ささきのやまきみ)もその一つで、韓帒宿禰(からふくろのすくね)なる人物が、5世紀後半の雄略天皇の時代に『日本書紀』に登場する。山君とは、朝廷の直轄地である山を管理し産物を貢納する山守部を管掌した氏族で、近江国栗太(くりた)郡に小槻山君(おつきやまのきみ)が存在し、小槻神社(現・草津市)を氏社とした。沙沙貴神社も、もとは狭狭城山君の氏社であったと考えられる。

 平安期にこの地を拠点とした源常方の一族が近江源氏或いは佐々木源氏と称され、常方の孫・秀義が1159年の平治の乱で源義朝に与して敗れ、一旦関東に移り住む。しかし、源平の合戦で手柄を立てた秀義の嫡男・定綱が近江国の守護に任ぜられ、故郷に返り咲く。

 因みに、源平の合戦時に宇治川の戦で梶原景季(かげすえ)と先陣争いを繰り広げたことで知られる佐々木高綱は、やはり源秀義の子息で、定綱の弟であった。

 定綱の孫の代になって、佐々木氏は四家(氏)に分かれ、大原・高島・六角・京極と称するようになる。このうち、佐々木源氏宗家として近江の守護職を継ぎ、南近江を治めたのが六角氏、北近江に勢力をはったのが京極氏で、その名称は、それぞれ京の六角と京極に邸宅を有した事による。

 そして、鎌倉時代後期、京極氏より佐々木高氏(のち道誉)が出る。道誉(どうよ)は足利高氏(のち尊氏)と結んで鎌倉幕府討滅や南北朝の合戦、観応の擾乱(足利尊氏・直義兄弟の抗争)等で活躍する。宗家である六角氏が鎌倉幕府方について一時逼塞した事から、近江国守護の地位を得るが、それに止まらず、若狭・出雲・上総等の守護を歴任し、さらに幕府の財政を掌る政所の執事(頭人)に任じられる。権謀術数に長けて臨機応変に行動し、情勢を適確に判断して室町幕府内に確固たる地位を築いた。一方で、道誉は文芸等にも卓抜した才能を発揮し、多くの連歌を詠むと共に、立花や香・茶といった芸事もたしなんだ。

 自身の価値観や主張を誇示するが如く、時として華美で奢侈な装束や奇抜な振る舞いを見せたが、室町幕府も『建武式目』で禁じたこのような行為を「婆娑羅(ばさら)」と称し、行為に及ぶ有力武士を「婆娑羅大名」と呼んだ。佐々木道誉はまさにその代表的存在として知られている。本来無骨なイメージの強い武士階級からこのような人物を生み出した背景には、京に隣接してその影響を受け、古代より先進文化地域であった近江の風土が存在したと考えられる。

 なお、佐々木道誉の後、近江守護職は再び六角氏が受け継ぐところとなり、京極氏は応仁の乱後衰退するが、小谷城を拠点として北近江に君臨した浅井(あざい)氏はもとその家臣であった。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史