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近江の風土記

Vol.7

【第二シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
ー神のいます霊山・伊吹山ー

 近江と美濃の国境、即ち滋賀県と岐阜県の県境に位置する伊吹山は、標高1377.4メートル、滋賀県内で最も高い山である。この山は古くから神の坐(いま)す霊山として崇められ、ここを舞台にさまざまな物語が展開した。

 伊吹山に纏わる説話で有名なものと言えば、日本武尊(倭建命、やまとたけるのみこと)の最後の戦いであろう。父・景行天皇の命により、日本武尊は熊襲(くまそ)征伐に西国に遣わされ、大和に帰還した後すぐに、今度は東国への遠征を命じられる。その途上、伊勢神宮で叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かり、東国での戦を経て、帰路尾張にこの剣を置いたまま、伊吹山の荒ぶる神の征伐に向かう。山で出会った大蛇(または白猪)を伊吹山の神の正体と見抜けなかった事で、神に氷雨を降らされ、著しくその身体を害せられる。衰弱し意識が朦朧(もうろう)とした日本武尊は、下山して麓の泉で水を飲み覚醒したとされるが、一説にこの泉が、のち中山道の宿場として栄えた醒井(さめがい)(現・滋賀県米原市)で今も湧出する居醒(いさめ)清水であると言われる。日本武尊は、この後美濃から伊勢へと移り、故郷大和を偲ぶ歌を詠んだ後、能褒野(のぼの)にて落命する。

 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和しうるわし

 伊吹山山麓は現在も風雪の厳しい場所として知られるが、「いぶき」とは「息吹」、すなわち山で発生する霊気(冷気)と受け取られ、古代の人々は、荒ぶる神が所在するとして畏敬の念を抱いた。奈良時代初期に近江国守となった藤原武智麻呂(鎌足の孫で不比等の子)がこの山に登ろうとした際、土地の民は、「この山に入ると、疾風・雷雨があり、雲霧が暗く、また蜂の群れに襲われます。昔日本武尊が鬼神の調伏を図りましたが、逆に害せられました。」と諫言した。しかし、武智麻呂は、「若い頃から鬼神を崇敬しているので、恐れる必要はない。」と言って、禊をして入山する。二匹の蜂に襲われたが、これを却け、風雨は静まり天気は清く晴れて、伊吹山を徘徊したと伝える。

 自然の驚異に対する観念として、山が神の坐すところとみなされる例は多く存在し、やがて仏教が日本の社会に広まると、山の信仰と僧侶の実践する山林修行とが結び付き、神社と共に山林寺院が営まれるようになる。伊吹山麓には、平安初期に一精舎が営まれ、薬師仏が祀られた。9世紀半ばにこの精舎に入った東大寺僧三修(さんじゅ)の働きで、伊吹山護国寺として朝廷の認可する定額寺(じょうがくじ)に列せられ、中・近世を通じて修験の拠点として繁栄した。

 ところで、山林で生活する僧は、修行を通じて病を癒やす能力を身に付けたが、それは経文を唱え加持祈祷を行うといった呪術的手段ばかりでなく、多くの薬草を用いて効験を示す部分も存在した。

 かくとだに えはや伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを (藤原実方)

 百人一首に見えるこの歌に詠まれた伊吹は、近江・美濃国境の伊吹山であるとする説が有力であるが、古くから伊吹山は薬草の宝庫であり、平安時代の例を見ても、近江と美濃から朝廷に納められる薬草の種類は群を抜いていた。伊吹山の薬草は日本の各地にもたらされ、近江を代表する特産物として知られた。伊吹山ならではの自然の産物が、近江の産業を育成すると同時に、それを活用する修行僧の活動が、まさに近江の風土を象徴する自然と文化の融合を生み出したのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史