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近江の風土記

Vol.8

【第二シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
ー琵琶湖の守り神・弁天さまの聖地・竹生島ー

 「近江国風土記」逸文の伝えるところによると、夷服(いぶき)(伊吹)の岳の神である多々美比古(たたみひこ)命が、その姪(或いは妹か)の浅井の岡(※)に坐す浅井比咩(あさいひめ)命と高さを競った際に、浅井の岡が一夜にして高さを増した事から、これに怒った夷服の岳の神が刀剣で斬り殺した。その首が琵琶湖に落ちて竹生島になったという。

瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮 古い伝えの竹生島 仏の御手に抱かれて 眠れ乙女子(おとめご) 安らけく

 有名な『琵琶湖周航の歌』に歌われる竹生島は、湖北・葛籠尾崎(つづらおざき)の沖合2キロの時点に位置する、周囲2キロの琵琶湖で2番目の大きさの島である。「ちくぶ」という名の由来は、浅井の岡の首が湖に沈む際の「都布都布」という音に因むとか、島に竹が生えた事によるとか、種々の説があるが、島の特質を考えた場合、神仏に対する斎(いつき)から転じたとする解釈も首肯されよう。奈良時代に、天照大神のお告げを受けた聖武天皇の命により行基が堂を建て、程なく元興寺の泰平や東大寺の賢円といった僧がこの島で修行を積んだという。平安時代以後、修行を志す僧の活動が見られた。

 現在この島の南部に所在する都久夫須麻(つくぶすま)神社には、浅井比咩命や市杵嶋姫(いちきしまひめ)命が祀られる。いずれも女神で、後者は北九州の宗像三神の一つ、「水神」としての性格を有する神である。やがて、仏教に伴い日本に渡来したインドの河神・弁才天が、この市杵嶋姫命と習合する。伎芸や水の神としての性格を有する弁才天は、琵琶湖の名称のもととなった楽器の琵琶や湖水との関係から、まさにこの地に相応しい存在と受け止められた。また、この島に現れた弁才天が比叡山を守護すると誓願したという伝承に基づき、同じ近江に位置する延暦寺の天台宗系の僧が、この島に入って修行した。島の北部に所在する霊窟と呼ばれる洞窟は、清浄な行場として注連縄(しめなわ)が張られている。

 現存の都久夫須麻神社社殿は、豊臣秀吉の墓である京都の豊国廟の一部を、その遺子・秀頼が1602年に移築したものとされ、明治初期に神仏分離が起こるまでは、弁才天を本尊とする寺院の本堂であった。安土桃山時代の代表的な建築物で、多くの装飾彫刻が見られ、国宝の指定を受けている。また、都久夫須麻神社に隣接する宝厳寺(ほうごんじ)は真言宗の寺院で、大弁才天女を本尊とするが、観音堂には鎌倉期の千手観音立像が安置され、西国三十三所観音霊場第三十番の札所となっている。もとは都久夫須麻神社と一体で、巌金山(がんこんさん)太神宮寺などとも称された。その関係で、宝厳寺の観音堂と都久夫須麻神社は舟底天井の渡り廊下で繋がっている。観音堂と渡り廊下は国の重要文化財、観音堂横の唐門(極楽門)はやはり豊国廟から移築されたもので、国宝である。本寺は、平安期の装飾経や鎌倉期の仏画をはじめ、多くの貴重な文化財を伝えており、往時の盛んな信仰の様子を窺わせている。

 足利尊氏や義満・義教・義政といった室町幕府の将軍が崇敬の跡を遺し、戦国期には北近江の大名である浅井氏や越前の朝倉氏が寄進を行っている。浅井氏と言えば、織田信長に小谷城で攻め滅ぼされる事になる浅井久政が、その子・長政への家督相続を巡る争いから、一時家臣によりこの竹生島に幽閉されていた。その織田信長も、長浜から船でこの島に参詣し、信長配下の木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、竹生島に渡る湊である早崎浦(現・長浜市)の所在する早崎村を竹生島維持管理の財源とし、庇護を加えた。

 なお、竹生島と葛籠尾崎の間の湖底には、縄文時代から中世に及ぶ幅広い時代の土器が分布する葛籠尾崎湖底遺跡が存在する。完形の土器が多く採取される貴重な遺跡で、現在本学文学部の考古学専攻や理工学部ロボティクス学科などの教員が調査に加わり、水中探査ロボットを用いて、多くの成果をあげている。

※夷服岳すなわち伊吹山の高さに対抗したとされる浅井岡は、東浅井郡の金糞(かなくそ)岳に比定されるが、その高さは1317メートルで、伊吹山よりも60メートル程低いものの、近江では伊吹山に次ぐ第二の高さの山である。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史