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近江の風土記

Vol.11

【第三シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
古代近江の「御厨(みくりや)」

 平安時代初期に、静安(じょうあん)という元興寺の僧がいた。彼は近江の比良山に住して妙法寺・最勝寺という寺院を建立したが、僧綱の律師に任じられ、宮中での仏名会(ぶつみょうえ、仏の名を唱えて懺悔祈願する法会)や灌仏会(かんぶつえ、釈迦の生誕を祝う法会)の導師を務めた。比良山の両寺はのちに官寺に列せられた。その跡地と目される大津市栗原の地に「西勝寺野」という地名が残っている。

 この静安が、和邇船瀬(わにのふなせ)という港を造営したという。和邇の地には駅家(うまや)が置かれ、北陸道の駅馬の規定である五疋より多い七疋と、伝馬五疋が設置された。平安時代に逢坂(おおさか)関が山城・近江の国境に設置され、龍華(りゅうげ)関と大石関が置かれて新たな三関とされたが、平安京より八瀬・大原を通り、途中から龍華関を経て近江に入る道が北陸道と合流する地点が和邇であった。即ち、和邇は陸上交通の要衝であり、同時に、湖岸に和邇船瀬が設けられたことで、湖上交通との接点ともなった。現在の大津市和邇中浜或いは和邇今宿の辺りと推定される。

 さらに、この和邇には御厨(みくりや)が所在した。「厨」とは厨房の「厨」、つまり食事を準備する場所のことで、特に神に供える食物を設える場として「御」という字を付して御厨と呼ばれたが、調理を行う場だけでなく、食材を調達する特定の地区も御厨と称された。そして、神社や寺院の御厨のみならず、天皇・皇族の食材の供給地も御厨とされ、その意味から、寺社の荘園などもその例に含まれるようになった。ゆえに、現在でも全国各地に「御厨」という地名が残っている。

 近江の御厨は、平安の都に近接する事から、朝廷に対する食材の供給地として重要な役割を有した。盆地に位置する平安宮で生活する天皇や皇族にとって、近江から貢納される琵琶湖の産物は、貴重な動物性蛋白源であったと考えられる。律令制下で贄戸(にえこ)と呼ばれた人々(贄人)の集団が、朝廷にその地の特産物を贄として貢納する役割を帯びたが、近江の御厨からは、琵琶湖で捕獲される魚類の加工品等が納められた。最も早い段階でその存在が史料に認められるのは、近江国坂田郡の筑摩(つくま)御厨(現・米原市)で、平城京で出土した木簡に、この御厨から届けられた「醤鮎」(鮎の塩漬け)に関するものが見受けられる。他にも、「醤鮒」「鮨鮒(ふなずし)」「味塩鮒」等を供していた。延暦19年(800)には、この筑摩御厨の長が、饗宴の食事を掌る大膳職から、天皇の食事を管轄する内膳司の所属に変えられた。まさに、天皇のための食材を供給する拠点と位置付けられたのである。

 9世紀後半の時点で、筑摩・和邇の御厨の他に、勢多(現・大津市)と、前回触れた田上の網代が存在した。天皇や朝廷との関わりが深い御厨で活動する人々には、漁獲の独占権など特権が付され、権力者との関係を深めたため、次第に御厨での活動を望む人々が増加した。これに対して規制を試みた朝廷も、かえって供給不足を招き、早々に覆さざるを得なくなった。このような状況が、後世琵琶湖の各地で、さまざまな特権を有し、時には結束して権力者や他の地区の集団と抗争する、特色ある「湖族」を生み出したと考えられる。

 中世になって、近江は村落の自立性が高く、多くの惣(そう)が形成され、また15世紀には、広域に生じた「一揆」の発端となる動きが見られたが、高い生産性と恵まれた交通環境など、近江ならではの地域的特質、すなわち風土と、「湖族」に繋がる伝統が、その原動力となったと言えよう。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史