1. ホーム
  2.  > 
  3. 近江の風土記
  4.  > 
  5. Vol.12

近江の風土記

Vol.12

【第三シーズン】湖国に遺る名所・旧跡
近江の遺跡と文字資料

 BKCのある草津市の北、守山市に第4番目の附属校として開校した立命館守山中・高等学校は、守山市三宅町に所在する。この「三宅」という地名は、隣接する草津市芦浦、同じく野洲市の三宅という地名と共に、6世紀頃にこの地に設けられた葦浦屯倉(あしうらのみやけ)に由来すると考えられている。

 『日本書紀』安閑天皇二年(535)五月甲寅条によれば、この時九州から関東の各地に朝廷の直轄地である屯倉が設けられ、その一つが近江国の葦浦屯倉であった。

 屯倉は、現地の管理を行う役所(ヤケ)と田地、それに収穫物を収納する倉を備えており、それぞれの施設の名称が用字や音に反映されて、「御宅」「屯家」「官家」「屯倉」などと表記される。現地の管理者は朝廷から使わされたが、その労働力は、朝廷より国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)に任ぜられた在地の豪族が提供したと考えられる。葦浦屯倉の場合、のちに近江国野洲郡となる地域を支配した安(やす)国造なる豪族が関与した。安国造の祖とされる意冨多牟和気(おおたむわけ)の娘が倭建命(やまとたけるのみこと)の妃となったと『古事記』に伝わるように、大和の大王家と密接な関係を持ち、このような経緯で屯倉が設置されたのであろう。

 政治的な意味ばかりでなく、社会的・文化的にも、先進地域としての性格を有していた。その事を裏付ける事実が、近年考古学調査の進展に伴って相次いで明らかになり、注目を集めている。

 西河原遺跡群と総称される、現・野洲市に位置する遺跡群では、多くの建造物の遺構と共に、木簡・墨書土器といった文字資料を含む、多数の遺物が検出されている。これらの遺物で特に注目されるのは、全国的にも例の少ない7世紀後半代の木簡が認められる事で、この時代の地域の情勢を知る有力な手掛かりとなっている。

 出土遺物や木簡の内容から知られることは、この地に、地域の経営の核となる官衙(かんが=役所)的な施設が置かれていたこと、鍛冶や木製品の工房が置かれていたこと、祭祀に関連する施設が存在したこと、そして、明らかに渡来系と目される人々がここで働いていたこと、等々である。かつて触れたように、近江には多くの渡来系氏族が居住し、物流や朝鮮半島との交易などに関わっていた。志賀漢人(しがのあやひと)と呼ばれた人々が、当初大津宮が置かれた琵琶湖南西の地を拠点に活動し、やがて琵琶湖の周囲全域に居住するようになったと考えられている。

 安国造が支配した、のちの野洲郡の地域も、これらの渡来系氏族が居住するようになり、当時としては最先端の知識と技術でもって、在地の有力者に仕えていた。現・大津市の北大津遺跡から出土した、近江で最古の「音義木簡」は、漢字の訓や音の表記の類例を記したもので、極めて重要な意義を有している。また、西河原遺跡群の森ノ内遺跡から見つかった、国の命令を伝える文書木簡も、当時の和文表現の漢文で、歴史学のみならず国語学でも、貴重な史料として注目されている。

 未だ広範囲に田園風景の残る近江。古代に於いては、政治・経済、文化といった全ての面で先進の地域でありながら、その地下には、開発の波に晒されていない、貴重な遺跡と資料が眠っている。これから各地で調査が進むにつれて、未解明の古代社会の様相が明らかになるばかりでなく、従来の歴史認識の変更を余儀なくされる可能性も秘めているのである。

背景の地図[出典:国土地理院所蔵 伊能大図(米国)彩色図]

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史