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日本の古代を築いた人びと

 
Vol.1

会報2023年 春号掲載
ヤマト朝廷の立役者
雄略天皇

 1968年(昭和43)埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に、10年後のX線調査で金象嵌の銘文のあることが判明した。銘文には、辛亥の年に乎獲居臣(おわけのおみ)なる人物が、獲加多支鹵(わかたける)大王の寺が斯鬼(しき)の宮にあった時にその治世を助け、この刀を作らせて、代々ヤマトの王権に杖刀人の首として仕えてきたことを記す、とされている。

 稲荷山古墳は全長120mの前方後円墳で、5世紀後半頃の築造と考えられる。とすれば、銘文の辛亥の年は西暦471年に該当し、斯鬼の宮に「寺」すなわち政務の場があった獲加多支鹵大王とは、『古事記』や『日本書紀』に登場する雄略天皇に該当し、この時代に関東の地にまでヤマトの朝廷の勢力が及び、当地の豪族がその配下に組み込まれていたことが明らかになった。

 この発見で合わせて注目されることになったのが、熊本県和水町の江田船山古墳から1873年(明治6)に出土した、鉄の大刀に施された銀象嵌の銘文である。こちらには、同様に大王の名前と、典曹人(文書を扱う官人)として仕えた无利弖(むりて)という人名が見える。問題となったのは大王名で、かつては記紀の反正天皇に比定されていたが、鉄剣銘と同様に獲加多支鹵大王である可能性が高まり、同じく雄略天皇を指すと受け止められるようになった。この二つの銘文から、関東地方の豪族と九州地方の豪族が、それぞれ武官・文官的な役割を帯びて、ヤマトの朝廷に仕えていたことが分かったのである。

 獲加多支鹵大王が雄略天皇と受け取られるのは、雄略天皇が大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ)という諱(いみな)をもつことによる。一方、教科書等にも記されるように、中国の『宋書』倭国伝に登場する、この時代の倭の五王のひとりである倭王武が雄略天皇と見なされ、宋の王朝に遣使して、皇帝から称号等を賜ったと伝える。記紀以外の記録が乏しいこの時代に、雄略天皇と目される大王の名前が関東と九州で出土した遺物に見られたことは、研究史上画期的な出来事であった。

 第21代とされる雄略天皇は、古代の天皇(大王)の中でも注目すべき人物で、異母兄である安康天皇が眉輪(まよわ)王に殺害されると、同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)皇子を斬殺し、葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の宅に逃げ込んだ眉輪王と同母兄・坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子を焼き討ちし、さらに、皇嗣と目された従兄弟の市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を謀殺するなど、近親を次々と殺害して即位した。その治世は極めて専制的な性格が強く、吉備の豪族を征討し、朝鮮半島に出兵し中国の南朝に遣使するなど、内政と外交の両面で強硬な政策を展開したとされる。このような姿勢が、日本列島に覇権を確立し、政権の基盤の構築につながったと考えられる。

 8世紀の後半に成立した『万葉集』は、この雄略天皇御製の歌ではじまる。
籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に
菜摘ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ 大和の国は
おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ
我こそば 告らめ 家をも名をも

 さらに、平安時代の初頭に成立した説話集『日本霊異記』上巻の第一話「 電(いかづち)を捉へし縁」もまた、雄略天皇にまつわる話である。このように古代の代表的な文学作品の冒頭を飾るのは、中央集権体制の律令国家が成立した8世紀の段階で、国家形成の重要な画期として雄略天皇の治世が評価されていたことを示すものと言えよう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。