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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.3

阿倍倉梯麻呂

 7世紀前半の皇極朝から孝徳朝にかけて活躍した朝廷の高官に、阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ、内麻呂)という人物がいた。推古16年(608)に来朝した隋の使者・裴世清(はいせいせい)から皇帝・煬帝(ようだい)の国書を受け取った阿倍鳥臣(とりのおみ)の子と推定される。阿倍氏は朝廷の名門貴族で、孝元天皇の皇子・大彦命(おおびこのみこと)の子孫と伝える。大彦命は崇神天皇の命を受け、四道将軍の一人として北陸に遣わされた。稲荷山古墳出土鉄剣銘の「意富比垝(おおひこ)」という人名も、大彦命に関係するという。

 阿倍氏の本拠は大和国十市郡阿倍(現・奈良県桜井市阿部)で、ここに倉梯麻呂の創建にかかる安倍寺(崇敬寺)跡があり、安倍史跡公園として整備されている。発掘調査の結果、この寺院は法隆寺式伽藍配置をとり、創建年代も倉梯麻呂の活躍した時期に相当する事が明らかになった。近隣には、その流れを汲む安倍文殊院があり、鎌倉時代の仏師・快慶の作にかかり、建仁3年(1203)の銘をもつ国宝・木造騎獅文殊菩薩及び脇侍像で知られる。倉梯麻呂という名も、同郡倉橋(現・桜井市倉橋)の地名に因むと考えられる。

 『大安寺伽藍縁起』によれば、舒明11年(639)に創建された最初の勅願寺である百済大寺が、子部神の怨みにより焼失した後、夫・舒明天皇の遺命を受けた皇極天皇が改めて造営を命じた際に、阿倍倉梯麻呂と穂積百足(ほづみのももたり)を造寺司に任命したという。平成9年(1997)から同12年にかけて行われた発掘調査で、大規模な塔や金堂の存在が確認された吉備池廃寺が百済大寺である可能性が高くなったが、その吉備池廃寺は、安倍寺跡の西北約600mの地点に位置しており、倉梯麻呂による造営への関与が強く意識される。

 大化元年(645)6月に飛鳥板蓋(いたぶき)宮で起こった中大兄皇子や中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)の後、皇極天皇の譲位により即位した孝徳天皇の朝廷で、倉梯麻呂は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂と並び、左大臣の地位につく。これは左右の大臣が任命された最初の例で、皇太子とされる中大兄皇子や内臣・中臣鎌足らとともに、大化改新と呼ばれる政治改革に携わった。任命に際して、孝徳天皇から金策という金泥で書かれた冊書を賜ったという。

 大化3年、新たに七色十三階の冠が制定され、翌年4月には、推古11年(603)の冠位十二階による冠が廃止されたが、倉梯麻呂と石川麻呂の左右大臣だけは、引き続き古い冠を着した。十二階の冠に加えて大臣の冠とされていたのは紫色の冠で、新制では第3の色とされた。或いは、両大臣のみは古い形の冠を着用し続けていたのかも知れない。

 この年、倉梯麻呂は、四天王寺に比丘・比丘尼等を招き、四天王の像4体を塔内に安置し、釈迦の浄土である霊鷲山(りょうじゅせん)の像を造ったという。現在、四天王寺(現・大阪市天王寺区)の南方に阿倍野という地名が残るが、これは阿倍氏の領地に由来するという説もあり、もしそうであるとすると、四天王寺は古くから阿倍氏と縁の深い寺院であったことになり、厩戸皇子(聖徳太子)や、難波遷都との関係についても、興味がもたれる。

 倉梯麻呂は、大化5年3月に難波京で薨去した。孝徳天皇や中大兄皇子をはじめ、諸卿も嘆き悲しんだという。その直後に、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の件で粛清される事件が勃発する。倉梯麻呂は娘の小足媛(おたらしひめ)を孝徳天皇の妃としていたが、二人の間に生まれた皇子が有間皇子で、この皇子も、孝徳天皇崩御後の斉明4年(658)、謀反の罪により紀伊の藤白坂で処刑された。悲劇が相次いだのであるが、いずれも、中大兄皇子による謀略と言われている。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。