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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.4

三蔵法師の弟子 道昭

 奈良の興福寺や薬師寺は法相宗の本山として知られるが、最初にこの法相宗を日本に伝えたとされるのが、7世紀後半期に活躍した道昭という僧であった。道昭は河内国丹比(たじひ)郡の出身で俗姓は船(ふね)氏、6世紀半ばの欽明朝に活躍した王辰爾(おうしんに)という百済系渡来人の子孫にあたる。王辰爾は、大臣・蘇我稲目の命により船の賦(みつぎ)を数えたことで、船史(ふねのふひと)という氏姓(うじかばね)を与えられたという。

 この王辰爾の子若しくは孫に当たる人物に、船史恵釈(えさか)がいた。恵釈は王辰爾と同様に蘇我氏に仕えたと見られ、大化元年(645)6月に飛鳥板蓋宮で起こった中大兄皇子や中臣鎌足等による蘇我入鹿暗殺事件、即ち乙巳の変に際して、入鹿の父・蝦夷が甘橿丘の邸宅に火を放つと、火中から厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が録した「国記」という書を取り上げ、中大兄皇子に献じた。

 船史恵釈の子として舒明元年(629)に生まれた道昭は、飛鳥寺で得度し、孝徳朝の白雉4年(653)に、中臣鎌足の長子である僧・定恵(じょうえ)らと共に遣唐使に随行して唐に渡った。当時、唐の都・長安では、西域・天竺への求法の旅を終えて帰国した玄奘が、当初長安の弘福寺(ぐふくじ)、のち大慈恩寺で持ち帰った経典の翻訳事業を進めていた。『西遊記』に登場する三蔵法師として有名なこの玄奘より法相宗の教学を学び、斉明7年(661)に日本に戻った。

 道昭の逝去を告げる『続日本紀』文武4年(700)3月己未(10日)条の伝記によれば、玄奘は道昭を特に寵遇し、同房に住まわせて、次のように語ったという。昔西域に赴いた際、路上で食べるものに困り、布施を乞うべき村もなかったところ、一人の僧が梨を持ってきて食べさせてくれた。それを食したことで気力が回復したが、道昭こそ、この時梨をもたらした僧である、と。またさらに、仏教の経論は深妙なもので、究めつくすことはできない。そこで、禅を学び、東の日本に伝えるのが最も重要なことである、と伝えた。

 この教えを受けて道昭は禅定を習学し、多くのことを悟った。遣唐使について日本に戻るとき、玄奘は所持する仏舎利と経論を道昭に授け、改めて伝道を命じた。また、三つ足の鍋を与え、これは西域より持ち帰ったもので、物を煮て病者に施せば、必ず神験がある、と申し添えた。帰途、登州(現・中国山東省牟平県)で多くの使者が病になったので、その鍋で粥を煮て与えると、即日回復した。さらに、海路で船が七日七夜漂い進めなかった時には、卜占により竜王が鍋を欲しがっていると告げられたため、道昭が海中に投げ入れると、無事に日本に戻ることができたとされる。

 帰国後、道昭は飛鳥寺の東南隅に禅院を建て、修行を志す多くの人に禅を伝えた。のち十数年の間、天下を周遊して路傍に井戸を掘削し、港湾に船や橋を造立した。宇治川に掛かる宇治橋も、道昭により設けられたという。勅命により禅院に戻り、座禅に明け暮れ、端座したまま臨終を迎えた。その遺体は粟原(現・奈良県桜井市)で荼毘に付され、遺骨を親族や弟子が奪い合ったが、風が吹き何処ともなく飛び散ったと伝える。平城遷都後の和銅4年(711)、右京四条一坊の地に禅院寺が設けられ、道昭の持ち帰った経論は飛鳥寺の禅院からここに移された。

 道昭は、玄奘から受学した法相宗の教学を弘めただけでなく、座禅を奨め、また、仏教の福田思想に基づいて、諸国を巡行しさまざまな社会事業を展開したとされるが、そこには、奈良時代に活躍した行基と共通する要素が見受けられる。同じ法相宗の僧として知られる行基が道昭に師事したという伝が残されているのも、真偽のほどはともかく、両者の活動に共通する性格によるものかも知れない。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。