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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.6

県犬養橘三千代

 河内国を本拠とする県犬養(あがたのいぬかい)氏という氏族が、この地に所在した朝廷の直轄地である県を管理するとともに、租税の徴収などに携わっていた。河内の県といえば、のちに和泉国となる南部の茅渟県(ちぬのあがた)が知られるが、東部の古市郡の辺りにも県犬養氏が居住したことが認められる。

 天武元年(672)の壬申の乱で、吉野を発った大海人皇子(天武天皇)に鞍馬を提供したのが県犬養大伴なる人物で、その後功臣として重用された。この大伴との関係は定かでないが、同じ時期に、県犬養三千代という女性が敏達天皇の子孫に当たる美努王(みののおう)に嫁ぎ、葛城王・佐為(さい)王・牟漏女王という三人の子を儲ける。

 少女期に氏女(うじめ)として朝廷に出仕し、宮人(くにん、女性官人)となったと目される三千代は、この後聖武天皇に至るまで六代の天皇の朝廷に仕えることになるが、三千代が長子に当たる葛城王を出産する前年の天武12年に、天武・持統両天皇の子である草壁皇子が妃の阿閇(あへ)皇女との間に軽皇子を儲けており、三千代はこの皇子の乳母を務めたと推測される。

 天武天皇崩御後即位した持統天皇は、孫の軽皇子の成長を俟って持統11年(697)に譲位する(文武天皇)。この頃、経緯は不明であるが、三千代は美努王と離別し、藤原不比等の室となった。不比等は持統天皇の信任を受け、律令国家体制の構築に重要な役割を果たしていた。その不比等と加茂比売(かものひめ)との間に生まれた宮子が文武天皇の夫人となり、大宝元年(701)年に首(おびと)皇子を出産する。奇しくも同年、不比等は三千代との間に安宿(あすかべ)媛という女子を儲ける。

 同じ時期に出産したことから、三千代は首皇子に対しても乳母としての役割を果たしたとも考えられるが、出産後体調が優れない宮子に代わって、首皇子の母親的な存在であった可能性が高い。その首皇子と実子・安宿媛がやがて結ばれ、天平時代を築く聖武天皇と光明皇后となるのである。この事態を藤原不比等の政治的意図に基づくものと受け止めてよいか、確言は憚られるが、少なくとも結果として、三千代の存在が不比等の地位と権力に大きく貢献したことは疑いない。

 文武天皇が若くして崩御し、生母の阿閇皇女が即位すると(元明天皇)、和銅元年(708)に三千代は橘宿祢の氏姓を賜り、県犬養橘宿祢三千代と称した。こののち橘姓は、天平8年(736)に前夫・美努王との子である葛城王と佐為王が臣籍に降下して受け継ぎ、橘諸兄・橘佐為と名乗った。橘氏は貴族として朝廷にその地位を保ち、やがて藤原氏・源氏・平氏とともに、名門の氏名(うじな)として源平藤橘と称されるようになる。

 三千代の育った河内の地域は、早くから多くの渡来人が定住し、仏教文化が栄えていた。その影響を受け、三千代は仏教の篤信家で、養老4年(720)の夫・藤原不比等の薨去に際しては、翌年興福寺の金堂内に弥勒浄土を設えて供養したと伝える。また、長年仕えた元明天皇が重篤な病に陥ると、出家入道して食封や資人を返還することを申し出た。その信仰は、娘・安宿媛(藤原光明子)に受け継がれ、この光明子の影響で大規模に展開した、国分寺・国分尼寺の創建や盧舎那大仏造立などの仏教興隆事業が、天平文化を現出することになる。

 三千代は、天平5年に正三位・内命婦の身分で薨去する。葬儀は散一位の官人に准じる規模で盛大に行われた。そして、光明皇后が亡母の追善の為に建立したのが、興福寺西金堂である。この西金堂内に安置された阿修羅像に代表される八部衆像や十大弟子像など、天平文化を代表する作品が興福寺に伝わり、また、かつて法隆寺の金堂に安置されていた金銅阿弥陀三尊像と厨子は、三千代の念持仏とされ、やはり光明皇后によって奉納されたものと考えられる。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。