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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.8

良弁

 令和5年は、東大寺の開山である良弁の遷化後1250年に当たり、東大寺では、10月に盛大な御遠忌が催された。東大寺を語る上で欠くことの出来ない重要な人物でありながら、何故か当代の正史である『続日本紀』には、僅か四つの記事にその名が見えるだけで、詳しく触れるものはない。しかし、奈良時代の一級史料である正倉院文書や、東大寺の歴史を伝える『東大寺要録』等を通じて、その生涯を窺うことができる。

 良弁の出自については、相模国の漆部(ぬりべ)氏、或いは近江国の百済氏などとされている。幼時に鷲にさらわれた良弁を義淵が育てたとされ、東大寺・二月堂の前の良弁杉は、義淵が良弁を見つけた場所というが、同類の説話は多く見受けられ、真偽は定かでない。確実なところでは、良弁は、聖武天皇がその遺児・基王(もといおう、某王とも)の追善を目的に創建した金鐘(こんしゅ)山房に住する修行僧であった。有名な東大寺法華堂の執金剛神像に関わる説話が『日本霊異記』に見え、この像の足より放たれた光に導かれて聖武天皇が出会った金鐘行者が、良弁を指すと受け取られている。

 天平12年(740)、良弁は大安寺僧の審祥を招いて法華堂で華厳経の講説を行ったと伝える。翌年、国分寺・国分尼寺の建立が宣せられ、金鐘寺は大和国金光明寺に発展する。同15年には、盧舎那大仏造立の詔が出されるが、この頃から良弁の名が正倉院文書に多く見られるようになり、寺院を統括する上座の地位にあって活躍したことが認められる。

 近江・紫香楽で始まった大仏の造立が大和・平城京の東方の地で引き継がれ、まさに金光明寺が新たな大仏鎮座の地となり、東大寺と称された。大仏の造顕と東大寺伽藍の整備に尽力した良弁は、天平勝宝3年(751)に少僧都に任ぜられ、翌年の4月に大仏開眼供養会が盛大に催されると、良弁は東大寺別当となった。修行僧の経歴を有する良弁は、治病能力に優れており、国家の鎮護や衆僧の教導に加え、聖武太上天皇の病に際して看病に尽力した功により、同8歳(年)に大僧都に昇任した。

 天平宝字8年(764)、孝謙太上天皇と淳仁天皇・藤原仲麻呂の対立が動乱に発展する。この時良弁は、大僧都から僧正に昇任する。孝謙太上天皇方の軍を参謀したのが、当時造東大寺司長官であった吉備真備であり、太上天皇が仏教の師と仰いだ道鏡も、東大寺僧として良弁の使者を務めており、また、東大寺の正倉院から武具等が供出されていることなどが、良弁の処遇に反映したとも考えられる。この後良弁は、重祚した称徳天皇の崩御により道鏡が失脚した際にも、その地位を失うことはなく、光仁朝の宝亀4年(773)に僧正の地位にあるまま遷化した。

 金光明寺での華厳宗の興隆、大仏と東大寺への貢献、そして、22年にわたる僧綱としての執務と、まさにこの時代に比類なき活躍の痕跡をのこす高僧でありながら、『続日本紀』の良弁の卒去を告げる記事には、ただ使者を派遣して弔ったとされるだけで、その業績等は一切記されていない。他の著名な僧綱の例と比較しても、余りの簡素な記事に奇異な感を禁じ得ない。あるいは、良弁が東大寺伽藍と華厳宗を付嘱した親王禅師早良(さわら)が、非業の最期を遂げたのち、怨霊として恐れられ、『続日本紀』の関係記事が削除されたことと関係するかも知れない。

 先に触れたように良弁の出自は確定されないが、相模国では、良弁が天平勝宝7年(755)に故郷に戻った際に創建したという大山寺(おおやまでら)が、神奈川県伊勢崎市に所在する。一説に、良弁は、大山寺と同じ相模国大住郡の漆窪(現・神奈川県秦野市)の出身ともいう。良弁が見つけた不動明王像が、この地は弥勒菩薩の兜率天であると告げたといい、大山寺を開くに至ったが、良弁自身がのちに、弥勒菩薩の応現(この世に現れた)とされた。

 一方、近江国については、吉野山の蔵王権現のお告げを受け、良弁が近江の石山の地(現・滋賀県大津市)に如意輪観音像を祀って祈ったところ、陸奥国で金が産出し、良弁はこの地に石山寺を建立したと伝わる。また、金勝寺(こんしょうじ、現・滋賀県栗東市)も、天平15年(743)紫香楽宮の鎮護のために、良弁が建立したと寺伝に見える。近江出身のいわれは、東大寺の資材を近江より搬出した、良弁の活動の軌跡を反映したものかも知れない。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。