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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.9

会報2023年 冬号掲載
孝謙(称徳)天皇

 養老2年(718)、のちに聖武天皇となる首(おびと)親王とその妃である藤原光明子との間に、女児・阿倍内親王が誕生する。首親王即位ののち、光明子は待望の男児を出産し、生後二ヶ月で皇太子と定められるが、満一歳を俟たずして早世する。この後󠄀、長屋王の変が勃発し、皇后となった光明子とその四人の兄の藤原氏が聖武天皇の王権を支える体制が成立するが、飢饉や疫病等で社会は荒廃し、混乱した状況を招いた。

 天平9年(737)に天然痘の災禍が平城京を襲い、その翌年に20歳の阿倍内親王が皇太子の地位に就く。女性の立太子というのは空前の出来事であった。同15年には、恭仁(くに)宮の内裏で、皇太子自ら五節舞を演じ、臨席した元正太上天皇から、これを言祝(ことほ)ぐ詔を受けた。しかし、同17年に聖武天皇が重篤な病に陥った際に、「皇嗣未だ定まらず」と発言する人物がいたことからすれば、女性皇太子の存在を容認しない向きもあり、その地位は安定したものでなかったと受け取られる。

 天平21年(749)、聖武天皇は男性天皇として初の生前退位を敢行、出家し、皇太子が即位するが(孝謙天皇)、実質的に天皇権力はその母・光明皇太后の掌握するところとなり、彼女の信任を得た藤原仲麻呂が台頭し、やがて覇権を確立する。聖武太上天皇の崩御、橘奈良麻呂の乱を歴て、天平宝字2年(758)に孝謙天皇は、この仲麻呂の擁立した淳仁天皇に譲位する。同4年の光明皇太后の崩御後、近江・保良(ほら)宮行幸時に病となった孝謙太上天皇が、看病に当たった僧道鏡を寵遇し出家に至ると、淳仁天皇・藤原仲麻呂との間に亀裂が生じ、平城京への帰還ののち、武力衝突に発展する。

 この動乱で皇位を逐われた淳仁天皇に代わり、孝謙太上天皇が再び即位する(称徳天皇)。還俗せず尼身分のまま重祚(ちようそ)した天皇は、西大寺造営など仏教興隆事業を推進すると共に、道鏡を大臣禅師から太政大臣禅師、さらに法皇へと地位を向上させ、弟・弓削浄人(ゆげのきよひと)らその一族を重用し、神護景雲3年(769)には、道鏡の皇位継承まで企図するに至った。

 教科書や概説書等には、道鏡が女帝に取り入って分不相応な待遇を受けたと、当時より噂された内容を反映して論じているものが多いが、称徳天皇は史上唯一人の「出家天皇」であり、仏教思想を基盤とする国家統治を目指したことからすれば、道鏡の処遇を世俗的な男女関係で説明することには疑念が抱かれる。近親に後継のいない称徳天皇が、出家天皇の継承に拘ったとすれば、道鏡の皇嗣に関する一件も、また違った評価が可能となるように思うのである。

 太上天皇や皇太后、皇后、皇太子といった、かつて天皇権力を分掌した存在がなかった称徳天皇の治世は、天皇に専制的な権限が集中した時期でもあった。その意向に沿って政策が打ち出され、一般行政については、藤原永手や吉備真備といった、経験を積んだ太政官の官人により担われていた。この点に鑑みれば、「道鏡政権」や「仏教政治」という表現で称徳朝を評することには、違和感を禁じ得ない。

 称徳天皇崩御ののち、永らく彼女に仕えた股肱(ここう)の臣・吉備真備が推挙した皇嗣の候補は、文室浄三(ふんやのじようさん)・大市という、いずれも出家の経歴を有する、もと皇族の兄弟であった。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。