1. ホーム
  2.  > 
  3. 日本の古代を築いた人びと
  4.  > 
  5. Vol.10

日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.10

淡海三船

 奈良時代に活躍した貴族で淡海三船と言えば、教科書にも登場する有名なインテリ官人である。

 淡海氏とは、天武元年(672)の壬申の乱で叔父・大海人(おおあま)皇子に敗れた、天智天皇の子・大友皇子の子孫で、天平勝宝3年(751)に、それまで御船王と名乗っていた三船が淡海真人の氏姓を賜ったものである。御船王は出家して元開と名乗り、唐から渡来した道璿(どうせん)という僧に従っていたが、天平勝宝年間(749〜57)に勅により還俗し、式部省の官人となった。

 同8歳(年)に聖武太上天皇が崩御すると、当時内竪(ないじゅ、宮中の雑務を担う)であった三船は、大伴古慈斐とともに朝廷を誹謗したかどで左右衛士府に拘禁され、すぐに孝謙天皇の詔により放免されるが、出雲守であった古慈斐は三船の讒言によりその任を解かれたという。

 この後、尾張介となり、天平宝字2年(758)には山陰道の巡察使に任じられ、翌年には三河守、同8年美作守となった。このように地方の国司を歴任した後、同8年8月、諸国に干害と疫病が発生する中で、造池使として近江国に派遣されたが、その直後に藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が勃発する。平城京を逃れ近江に向かった仲麻呂が兵馬を徴発しようとしたのに対し、近江に滞在していた三船は、琵琶湖南部の要衝・勢多(瀬田)で仲麻呂の使者や従者を捕縛し、また勢多橋を焼き落とした。仲麻呂の一行は進路を変更せざるを得なくなり、湖西を辿り近江の高島へと進み、最期を迎えることになる。この功績により、乱後三船は正五位上・勲三等を授けられて近江介となり、また功田30町を賜った。

 三船は幼少より仏門に入り、仏教だけでなく、儒教等中国伝来の諸学にも精通したといい、地方官を歴任した際には、その教養を活かして、法の原則に基づき厳格に政務を執行した。このような姿勢は、当時の政権を担った藤原仲麻呂の施政方針に通じるものがあり、巡察使という重要な役割を帯びたことも、その証しと受け取ることができる。ただ、硬骨な性格故に、時として疎んじられ、上記のように身の拘束にまで及んだものの、すぐに官界に復帰して、同じく地方官の任についている。

 称德天皇の時代にも、兵部大輔と侍従を兼ねていた三船は東山道巡察使に任じられたが、突然解任される。称德天皇の勅によると、三船は生まれつき聡明で、詩文や史書に通じており、巡察使に任じたが、朝廷に報告する段階で、名声を期待して過度に厳格な検分の内容を呈示し、下野の国司による正税未納と官物の流用等をあげつらった。当地に於いて、下野介であった弓削薩摩のみ、その身を拘禁して執務させず、称德天皇が発した大赦も適用しなかったという。この措置に弓削薩摩が抗弁したため、三船は巡察使の任を解かれるに至った。

 三船の為人(ひととなり)を顕彰しながら処断の責任を問うという、一見矛盾した内容をもつ『続日本紀』の記事には、弓削薩摩が当時称德天皇に寵遇されていた道鏡の同族と目される人物で、そのことが三船に災いしたという示唆を含んでいるように受け取られる。実は、仲麻呂政権の頃に作成されていた『続日本紀』の前半部分に該当する文武元年(697)より天平宝字元年(757)までの草稿を、道鏡失脚後の光仁朝に編修し直した際に、三船もそのメンバーに加わっており、そのことが『続日本紀』後半部の記事にも反映したのかも知れない。

 この光仁朝に於いて、三船は他の官職と共に大学頭・文章博士を長く務めたが、宝亀 10年(770)、鑑真の弟子である思託の記した鑑真伝を整理し直して撰述した『唐大和上東征伝』が今日に伝わっており、鑑真来日の経緯を伝える貴重な史料となっている。 また、このころ三船は、入唐学問を修した大安寺僧の戒明(かいみょう)に、彼の将来した仏典の真偽を判じた書簡を送ったとも言われる。一方、平安初期に成立した、淳和天皇の勅撰にかかる漢詩集『経国集』には、仏教法会などに関わる三船の漢詩五首が収められるなど、官人でありながら仏教に対する造詣の深さを窺わせるものが多く存在する。

 延暦4年(785)に従四位下・刑部卿(ぎょうぶきょう)兼因幡守として卒去した淡海三船は、最古の漢詩集である『懐風藻』の撰者に擬され、また、今日天皇名として用いられる、「天智」「天武」など、歴代天皇の漢風諡号の作者とも伝えられる。まさに奈良時代の文人官僚として第一人者の位置を占める淡海三船であるが、官人としては波瀾万丈のキャリアが窺われ、時の政局とも関連して、その行状には興味深いものがある。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。