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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.11

百済王敬服

 『日本書紀』によれば、舒明3年(631)に、時の百済の国王であった義慈王は、その子・余豊璋を人質として日本に送り、両国の関係の強化を図ろうとしたというが、同じ頃、豊璋の弟で善光(禅広)なる人物も来朝した。斉明6年(660)唐・新羅の連合により百済の首都・扶余が陥落し、義慈王が唐都・長安に送られて百済は滅亡する。この後、遺臣の鬼室福信は、百済復興のために豊璋の送還と救援を日本に求めた。翌年、豊璋は百済に戻ったが、弟の善光は日本に留まり、白村江の敗戦後難波に居住することになった。善光の孫に当たる良虞(ろうぐ)は官人として日本の朝廷に仕え、持統天皇の時代に、その一族に「百済王(くだらのこにきし)」という氏名(うじな)が与えられた。

 この良虞の三男が百済王敬服(きょうふく)で、陸奥国の介を経て天平15年(753)に国守に昇任し、一時期上総守に転任したが、陸奥守に再任された後、天平勝宝2年(750)に宮内卿として中央に戻るまで、未だ朝廷の完全支配下にない陸奥国の経営に当たった。天平21年(天平勝宝元年)、敬服は同国の小田郡で金を産出したと朝廷に報告する。日本史上初の金の産出であった。当時中央では、盧舎那大仏の造立事業が平城京の東隣で展開されていたが、その体躯が出来上がったものの、当初計画されていた体表面への鍍金のための金が不足し、苦慮されていた。

 産金の報に接した聖武天皇は大変喜び、光明皇后・皇太子阿倍内親王や百官を率いて東大寺に赴き、大仏に報告する。この時、天皇は北面して大仏と向かい合い、その勅で「三宝の奴」と自称する。常に南面すべき天皇が逆の方位を向き、仏の下僕と称する、などというのは前代未聞の出来事で、周囲に与えた影響は多大なるものであった。程なく聖武天皇は男性天皇として初めて生前退位し、さらに出家して「太上天皇沙弥勝満」と名乗るに至る。

 敬服が長らく陸奥の国守を務めた理由の一つに、渡来系氏族として鉱脈の発見・開発の技術に長けていた、もしくはそういった人物を配下に従わせ、その役割を帯びていた可能性が考えられる。当時造仏長官として盧舎那大仏造立の役割を担っていた国君麻呂(くにのきみまろ)も、白村江の敗戦後百済から亡命した国骨富(こくこつふ)の孫に当たる人物で、敬服と同様に、朝鮮半島由来の技術を身に付けていたと見なされる。あるいは、両者の間に同郷出身氏族の官人としての繋がりがあったのかも知れない。

 産金の功労者である百済王敬服に対しては、従五位上から従三位へという破格の昇叙がなされたが、宮内卿の任について以後も、河内・常陸・出雲・讃岐・伊予といった諸国の国司を歴任する。一方で、天平勝宝4年に検習西海道兵使として軍事整備に携わり、天平宝字元年(767)の橘奈良麻呂の乱では、奈良麻呂の一味と目された黄文王・道祖(ふなど)王や大伴小麻呂らを拷問死させる。さらに、天平宝字8年(764)の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に際して、外衛大将として兵を率いて淳仁天皇を拘束し、最期は刑部卿として天平神護2年(766)に薨去するなど、刑吏や武官としても活躍した様子が知られる。

 百済王氏が本拠としたのは河内国茨田郡や交野郡で、現在大阪府枚方市中宮に、百済王氏の氏寺である百済寺の遺跡と、隣接して百済王神社が所在する。一説には、敬服が河内の国守であった時に、一族の本拠を難波からこの地に移し、氏寺・氏神として創建したと言われている。発掘調査により伽藍の形態が明らかになった百済寺の遺跡は、国の特別史跡の指定を受け、史跡公園として整備されている。延暦2年(683)桓武天皇は遊猟のため交野に行幸し、百済寺に近江や播磨の正税を施入しているが、渡来系の高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇にとっては、親近感を抱く土地柄であったのであろう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。