1. ホーム
  2.  > 
  3. 日本の古代を築いた人びと
  4.  > 
  5. Vol.12

日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度は、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.12

智努王(文室浄三)

 8世紀に活躍した官人に、智努王という皇族がいた。天武天皇と天智天皇の娘である大江皇女との間に生まれた長親王が父親で、智努王は二世王にあたる。長皇子は親王として最高位の一品にまで昇ったとされるが、和銅8年(霊亀元年、715)智努王が23歳の時に薨去し、その2年後に、蔭(おん、祖父・父の位に基づき位階に叙される制度)により無位から従四位下に叙された。

 神亀5年(728)、夭逝した聖武天皇の皇太子・基王(もといおう、某王とも)追善の施設を建設する造山房司長官に任じられる。この金鐘山房(こんじゅさんぼう)がやがて東大寺に発展するが、智努王はこののち木工頭(もくのかみ、宮内省所管で宮城の造設や資材の調達を担当する木工寮の長官)、恭仁宮造宮卿、紫香楽宮造離宮司と、聖武天皇のもとで大規模な造営工事を差配する役を歴任することになる。

 天平19年(747)に従三位に昇叙され公卿となり、盧舎那大仏の開眼供養が行われた天平勝宝4年(752)に、文室真人の氏姓を賜った。翌年、母または妻と目される茨田(まんた)郡王のために製作した仏足石が、現在奈良の薬師寺に遺されている(国宝)。同6年、難波京が置かれた摂津を管轄する摂津大夫に任ぜられ、同8歳(年)に作製された東大寺領水無瀬荘を描いた正倉院宝物・摂津国水無瀬絵図には、文室真人「智努」の署名が見えている。一方で、聖武太上天皇の生母・藤原宮子や聖武太上天皇の葬儀に際しては、その設営を取り仕切る御装束司を務めた。

 こののち治部卿から参議・出雲守となり、藤原仲麻呂政権下で太政官を乾政官と改める淳仁天皇の勅を奉じ、天平宝字3年(759)には、少僧都・慈訓と共に僧尼の綱紀粛正を奏上するなど、政策の建議に当たっている。大納言に相当する御史大夫で神祇伯も兼ね、正三位から従二位へと昇進したが、同8年(764)9月、藤原仲麻呂の乱が勃発する直前に辞任する。そのため、乱後も累が及ぶことなく、宝亀元年(770)に78歳で薨じた。

 基王の山房設営などの縁があってか、智努王は熱心な仏教信仰者で、東大寺の寺務にあたる大鎮や法華寺の大鎮、浄土院別当を務めたという。また、鑑真から菩薩戒を受け、仏教の教義をよく理解し、最高の僧位である伝燈大法師位を勅授されたという伝も見える。天平宝字4年の光明皇太后崩御に際して、陵墓を建設する山作司となったが、そののち出家したと見られ、文室浄三と称した。

 宝亀元年称徳天皇崩御により、皇位継承問題が議論された際に、左大臣・永手ら藤原氏の高官が白壁王の擁立を謀ったのに対し、右大臣・吉備真備は強硬に浄三の皇嗣を主張した。高齢を理由に浄三が固辞すると、真備は浄三の弟である文室大市を推挙する。結局、称徳天皇の遺志という理由で白壁王が皇太子となり、即位するに至るが(光仁天皇)、吉備真備が浄三・大市の兄弟を推挙したのは、天武天皇の孫であることもさることながら、この両者共に出家の経歴を有しており、その点、道鏡の皇位継承を断念した称徳の意向に添うと吉備真備が受け止めたことによるものとも推測される。

 天武天皇と天智天皇皇女の孫という血統に連なりながら、智努王は敏腕な官人としての経歴を有した。特に、大規模な建設事業の差配にその手腕を発揮したと受け取られるが、聖武朝から淳仁朝にかけての朝政に貢献すると共に、出家官僚という異例の存在でもあった。ただ、大仏開眼供養の直後に臣籍に降下し、光明皇太后の崩御後出家し、仲麻呂の乱の直前に辞任し、また吉備真備による皇嗣の推挙を固辞した直後に薨じるなど、どことなくきな臭い感を禁じ得ないが、残念ながら真実を知る術はない。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。