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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.13

会報2024年 春号掲載
道鏡

 教科書にも登場する有名な人物で、最も悪い印象を持たれている一人が、奈良時代の僧・道鏡であろう。この道鏡が朝廷の政治に介入して「仏教政治」を行ったことから国政が乱れ、その混乱を是正するために桓武天皇は寺院の林立する平城京を離れ、長岡京さらに平安京への遷都を敢行したと言われる。このような評価は正しいのであろうか。

 道鏡は、物部氏の後裔とされる河内国・弓削氏の出身で、葛城山に籠もって如意輪法を修め、梵文(サンスクリット)を解する練行の僧であったという。東大寺開山・良弁の使僧であったが、宮廷内の礼拝施設である内道場で禅師として勤仕し、天平宝字5年(761)近江の保良(ほら)宮に移御していた孝謙太上天皇が病になった際に、宿曜(すくよう)秘法という星の神々に祈る術でその病を癒やし、厚い信任を得て近侍するようになった。

 やがて孝謙太上天皇も出家するに至るが、道鏡との関係を諫言されたことで淳仁天皇や藤原仲麻呂との間に隙が生じ、翌年平城京に戻った際に太上天皇は天皇と袂を分かち、国家の大事は自ら主導すると宣言する。その2年後武力衝突に発展し、藤原仲麻呂は敗死し、淳仁天皇は廃され孝謙太上天皇が重祚する(称徳天皇)。

 称徳天皇は、尼である自分が皇位に即くのであるから僧の大臣もおかしくはないという理屈で、少僧都であった道鏡を大臣禅師に任じ、さらに太政大臣禅師から法王へと、いずれも空前の地位を与えることになる。最終的に大納言にまで昇った道鏡の実弟・弓削浄人をはじめ、その一族である弓削氏の人々も厚遇されたことから、「道鏡政権」なるものが国政を領導したなどと評されるのであるが、本当に道鏡が実権を掌握したのか、極めて疑わしい。

 道鏡自身が官人としての経験を有さないのもさることながら、注意しなければならないのは、大臣禅師補任に際して道鏡が辞意を表明したのに対し、称徳天皇は、仏教を興隆させるためにこの地位を与えるのであり、決して俗務をもって道鏡を煩わすものではない、と明言していることである。つまり、宗教政策以外は道鏡の差配によるものではなく、一般行政は、藤原永手や吉備真備ら経験豊富な官人により従来通り運営されていたのである。

 過剰とされる仏教興隆政策についても、西大寺の創建や百万塔の製作などが道鏡により行われ、財政を圧迫したなどと評されるが、それを言うならば、前代の聖武天皇による国分寺・国分尼寺の創建や盧舎那大仏の造立・東大寺の建立は、その比ではなかろう。

 結論を言えば、称徳朝の諸政策は、基本的には天皇自身の意向に添ったものであり、最も道鏡の皇位継承を望んだのも、称徳天皇であった。ただ、可能な限り天皇に対する批判を避ける必要があり、天武天皇の皇統から光仁天皇・桓武天皇という天智天皇の皇統に代わり、その桓武天皇が新たな皇統の都を築いたことの正当性を標榜するために、どうしても前代の政治の負の側面を強調し、未婚の称徳天皇を誘惑した怪僧・道鏡の所業に帰さねばならなかった。その意味では、下野国の薬師寺に退けられ、彼の地で最期を迎え庶人として葬られ、さらに当時から悪僧と取り沙汰された道鏡は、歴史に翻弄された悲劇のヒーローと言わねばならない。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。