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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.14

陸奥の動乱 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)

 大和に本拠を置く朝廷にとって、遠く離れた陸奥の地域は、支配領域を拡大し統治を行う上で、大きな課題であった。既に7世紀半ばの孝徳天皇の時代に、朝廷の支配に属さない蝦夷と呼ばれたこの地域の人びとへの対策として、渟足柵(ぬたりのさく・現新潟市)と磐舟柵(現新潟県村上市)が設置され、移住して柵の警備にあたる柵戸(さくこ)という人びとが各地から集められた。つづく斉明天皇の4年(658)には、阿倍比羅夫が派遣され、齶田(あきた、現秋田市)と渟代(ぬしろ、現秋田県能代市)の蝦夷を服従させたと伝える。

 律令体制成立後、神亀元年(724)に、海道(陸奥国の太平洋側)の蝦夷が陸奥の大掾(だいじょう、国司の第三等官)を殺害する事件が起こった。式部卿藤原宇合が持節大将軍に任ぜられ、坂東の兵を率いて鎮圧に当たった。今年国宝の指定を受ける、現地に残る多賀城碑によれば、この時従軍した大野東人(あずまんど)が松島丘陵の南東部に多賀城(現宮城県多賀城市)を設けたという。やがてこの地に陸奥の国府が移され、軍事を担う鎮守府が置かれることになった。

 和銅5年(712)に出羽国が設置された日本海側では、出羽柵が庄内地方から秋田村高清水に北進し、多賀城の北方にも新たに城柵が設けられるが、朝廷は武力のみで蝦夷の征圧を強行した訳ではなく、一方で懐柔と教化をはかった。朝廷に帰順した蝦夷は、狭義の蝦夷と俘囚(ふしゅう)に分けられ、蝦夷はそのまま本拠に居住し、俘囚は部姓を与えられて城柵付近に配された。多賀城設置後約半世紀の間、朝廷と蝦夷との間で大規模な戦乱は起こらなかった。

 神護景雲元年(767)、板東の上総から柵戸として陸奥の牡鹿地方に移った丸子氏の子孫で、道嶋宿祢の氏姓を与えられていた道嶋三山の建策により、胆沢地方の蝦夷に対峙するため、多賀城の北方約50キロの地(現宮城県栗原市)に伊治(これはり)城が築かれる。このころ、帰順した蝦夷は平城京に上って朝貢し、元日朝賀の儀に参列するなどしていた。ところが、宝亀5年(774)に蝦夷の上京朝貢が停止され、次第に緊張が高まることになる。

 同年、海道の蝦夷の間で騒動が生じ、当時の陸奥国鎮守将軍である大伴駿河麻呂と朝廷との間で、その対策についての遣り取りが行われる。駿河麻呂は蝦夷の拠点の一つを制圧し、同7年には海道と山道(内陸部)の蝦夷征討計画が陸奥国より申請された。これを契機に関東の兵が動員され、逆に陸奥や出羽の俘囚が西海道諸国や讃岐に移される。伊治の地を本拠とする、帰順した蝦夷の伊治呰麻呂はこの征討に従軍し、同8年の出羽征討の功績により、翌年、蝦夷としての最高位である外従五位下の位階を与えられた。

 蝦夷を編成して設置された上治郡の郡司(大領)に任じられていた呰麻呂は、同11年、覚鱉(かくべつ)城築造のために伊治城に駐留していた陸奥国守の紀広純(きのひろすみ)、牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害する。呰麻呂は陸奥介(国司の第二等官)であった大伴真綱を伴って多賀城に赴くが、真綱は陸奥掾の石川浄足とともに城から落ち延び、呰麻呂の蜂起に呼応した蝦夷の軍勢により城内の物品が略奪され、伊治城とともに、多賀城も焼き払われた。呰麻呂が何故に反旗を翻すに至ったのか、紀広純や道嶋大楯との人間関係や身分的偏見等を指摘する向きもあるが、真相は定かでない。また、その後の呰麻呂自身の動向についても、全く分からない。

 その後多賀城は再建されるが、宝亀5年の動乱以降陸奥の地域で繰り広げられた朝廷と蝦夷との争いは弘仁2年(811)に終結するまで続き、その年数から三十八年騒乱などと呼ばれる。この間、呰麻呂の反乱をはじめ、征夷大将軍坂上田村麻呂の活躍、蝦夷の族長・阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の降伏、征夷事業の存廃をめぐる徳政相論と、著名な出来事があり、朝廷の軍事拠点についても、胆沢城(いざわじょう、現岩手県奥州市)が築かれて鎮守府が多賀城から移され、さらに志波城(岩手県盛岡市)が設けられることになった。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。