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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.15

酒人内親王・朝原内親王

 宝亀9年(778)、前年からの病がようやく癒えた皇太子・山部親王、すなわちのちの桓武天皇は、異母妹に当たる酒人内親王を妃とする。この病は、どうやら宝亀6年に逝去した井上内親王の祟りと観念されたようで、大和国宇智郡(現・奈良県五条市)にあった井上内親王の墓が改葬され、墓守が置かれている。

 井上内親王は、山部親王の父・光仁天皇の即位にともない皇后となった女性で、聖武天皇の娘であった。つまり、山部親王の義母に当たる。その井上皇后が、宝亀3年に厭魅(えんみ、呪いの行為)を行ったとして皇后を廃され、所生の他戸(おさべ)親王も、皇太子の地位を奪われる。代わって立太子したのが、山部親王であった。

 天智天皇の孫に当たる光仁天皇の即位には、井上内親王の存在が影響したと噂され、当時はやった童謡にもそのことが謳われた。皇太子・他戸親王がやがて即位すれば、天武天皇の直系の血筋が受け継がれることになる。当初それが構想されたのであろうが、厭魅という奇怪な事件により、天武天皇の血統に連ならない皇太子が出現することになる。

 山部親王は、年齢では他戸親王よりずっと上であるものの、生母が和史新笠(やまとのふひとにいがさ)という渡来系氏族の血を引く女性であったことから、父が即位しても、侍従・中務卿という官人の立場に据え置かれていた。器量としては申し分の無い人物で、彼を支持する臣下もあり立太子に至ったが、厭魅自体を疑う向きもあったようで、立太子以後災異が相次いだことも相まって、その病も井上内親王の逝去と関連づけて受け止められたと考えられる。

 光仁天皇と井上内親王との間には、酒人内親王という皇女がいた。彼女は、かつて母も務めた伊勢の斎王に卜定され、 母の廃后後も予定通り伊勢に赴いた。のち、恐らくは母の逝去により退下し、やがて異母兄の皇太子に入室するはこびとなる。

 病が癒えた山部親王がすぐに伊勢神宮に参詣していることからして、伊勢神宮の存在もまた、山部の立場と関わるものと観念されたに違いない。伊勢神宮こそは皇室の宗廟であり、天照大神の直系という血統が皇位を保証する以上、伊勢に対する姿勢は、それまでとは皇統の異なる光仁・桓武の親子にとって極めて重要な意味をもち、それ故に、井上・酒人と二代続く斎王の経験者である内親王の存在を無視できない事情があった。

 そしてまた、山部親王の立太子にともない、生母である和史新笠に対して、新たに高野朝臣という氏姓が与えられている。この「高野」という号は、称徳天皇が高野天皇と呼ばれたことと関連する可能性がある。天武天皇・草壁親王の皇統を正統とし、その血統による皇位継承を前提に、律令が制定・施行され、平城京が設えられたとすれば、まずは光仁・桓武という新たな皇統の天皇を、正統な皇統に結び付けて観念させる必要が存したと考えられるのである。

 桓武天皇と酒人内親王との間に生まれた朝原内親王も、祖母・母と同様に斎王に卜定され、退下後、桓武天皇から皇位を継承することになる皇太子の安殿(あて)親王、すなわちのちの平城天皇の妃となった。伝によると、母の酒人内親王は極めて奔放な性格であったが、桓武天皇は咎めることなく自由にさせていたという。但し、桓武天皇に入室した多くの女性の中で、彼女只一人が天皇の皇女であったにもかかわらず、桓武は彼女でなく藤原乙牟漏(おとむろ)を皇后とした。結局、朝原内親王が平城天皇の子を儲けなかったことで、天武天皇・草壁親王・文武天皇・聖武天皇・孝謙(称徳)天皇と続いた皇統は絶えてしまうことになるのである。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。