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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.17

会報2024年 夏号掲載
早良(さわら)親王

 延暦13年(794)桓武天皇はわずか10年前に新たな都とした長岡京を放棄し、平安京へと遷都した。遷都といえば大変な事業であり、10年にして再度の遷都に踏み切ったのは、切羽詰まった理由が存したからと受け取られる。その理由として指摘されるのが、早良親王の怨霊による祟りであった。

 天智天皇の曾孫に当たる早良王は、白壁王(のちの光仁天皇)を父、和史新笠(やまとのふひとにいがさ)を母とし、天平勝宝2年(750)に生まれた。即ち、山部王(のちの桓武天皇)の12歳年下の同母弟にあたる。経緯は定かでないが、若くして出家し、盧舎那大仏の開眼供養を終え伽藍の整備が進められていた東大寺の僧となった。やがて早良王は、理由は不明ながら、称徳朝に東大寺から大安寺へと所属寺院を変えることになる。

 宝亀元年(770)に父・白壁王が即位しても還俗せず、大安寺の僧でありながら、開山・良弁逝去後の東大寺の整備に責任者として尽力したことが窺われる。ところが、天応元年(781)に実兄の山部親王が即位すると、おそらくは父帝の意向により早良は還俗し、皇太子(正確には皇太弟)とされ皇嗣の地位を得ることになった。

 長岡遷都の翌延暦4年、宮都造営の責任者であった藤原種継が暗殺される。多くの官人が罪に問われたが、この時事件の首謀者として嫌疑をかけられた早良親王は乙訓寺に幽閉される。無実を訴え飲食を絶つも認められず、廃太子のうえ淡路配流となり、護送される途上死去するに至る。この事件は、長岡遷都に異を唱える勢力の一掃を図ったとも受け取られ、東宮関係の官人など、早良に近い立場の者が多く処罰された。

 同7年正月、早良に代わって皇太子となっていた安殿(あて)親王が元服すると、畿内で干害が発生し、桓武天皇の夫人・藤原旅子が薨去する。これを皮切りに、翌年生母である高野(もと和史)新笠、翌々年には皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)、坂上又子と、桓武の近親者が相次いで逝去し、天災や疫病の流行と相まって、ついに皇太子が病に倒れる。この間、淡路に設けられた早良の墓に墓守が充てられたが、皇太子の病はやがて早良の怨霊によるものと卜定され、たびたび早良に謝罪がなされた。それでも怨霊は皇太子とともに桓武天皇の宸襟を悩まし続け、長岡京の放棄という事態を招くに至る。

 同19年早良に対し崇道(すどう)天皇という天皇号まで贈呈され、その墓は山陵と称された。同24年には崇道天皇のための寺院を淡路に建立し、さらに山陵自体を大和に移し、添上郡に八嶋陵が設けられる。晩年の桓武天皇の病も早良の霊の所為と見なされ、崩御の直前にも、種継暗殺の際に断罪された官人が本位に復され、また諸国の国分寺で春秋二季早良のために読経を行うことが命じられたが、その甲斐なく桓武天皇は崩御する。

 やがて、御霊信仰の隆盛とともに、崇道天皇(早良親王)は御霊会で祭られる筆頭の御霊とされ、脅威の対象から国家の守護神へと転化することになった。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。