1. ホーム
  2.  > 
  3. 日本の古代を築いた人びと
  4.  > 
  5. Vol.18

日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.18

藤原百川(ももかわ)

 延暦21年(802)、桓武天皇は藤原百川の遺子・緒嗣(おつぐ)に対し、百川がいなければ自身が帝位につくことはなかった、その功績に報いるため、年少ではあるが緒嗣を参議に任じると告げた。桓武天皇がそこまで評価した藤原百川は、称徳朝から光仁朝にかけて、政情の展開を導いた官人であった。

 百川は式家・宇合の八男に当たり、当初雄田麻呂(おだまろ)と名乗った。母は久米若女という女性で、渡来系とみる向きもある。百川は天平4年(732)に誕生し、6歳の頃に天然痘の疫禍で父を失う。長兄の広嗣が同12年に大宰府で乱を起こした影響で、しばらく式家の兄弟は不遇な環境に置かれた。

 雄田麻呂の名が史上に登場するのは天平宝字3年(759)正六位上から従五位下に昇叙されたというもので、翌年藤原仲麻呂政権下で智部(兵部)少輔となる。以降、仲麻呂を排除して成立した称徳天皇の治世で重用され、山陽道巡察使から左中弁、侍従、内匠頭、そして右兵衛督と要職を兼任する。神護景雲2年(768)に中務大輔となり、翌年内竪省(ないじゅしょう)の大輔を兼ねた。

 内竪省は神護景雲元年に設けられた、天皇の側近や後宮の官司を統括し、内裏の警備を担当する機関で、その長官である内竪卿には、道鏡の実弟である弓削浄人が任ぜられていた。つまり雄田麻呂は、称徳天皇と道鏡の信任を受けたとみられ、道鏡の出身地である河内国若江郡(現大阪府八尾市)に由義宮が造営されることになると、河内の国守に補任される。称徳天皇が由義宮に行幸し、河内国を河内職に改めたのに伴い、随行していた雄田麻呂は従四位上に叙せられ、河内大夫とされた。

 神護景雲4年3月、この由義宮で称徳天皇は病となる。この時、危篤の状況を救おうとした側近の尼の進言を、雄田麻呂は敢えて退けたという。平城宮に還御した天皇は同年8月に崩御する。

 天皇崩御後の皇嗣の選定に当たっては、文室真人浄三、その弟の大市の立太子を強硬に主張する右大臣・吉備真備に対し、左大臣・藤原永手や内大臣・藤原宿奈麻呂(すくなまろ、のち良継)と結託した雄田麻呂は称徳天皇の宣命を偽造し、白壁王を皇太子とした。議政官でなかった雄田麻呂が他の大臣等と同等の立場で議論を展開したとは考え難いが、内竪大輔という官職から、重要な役割を演じたと推測されよう。

 このような経緯で即位した光仁天皇からも雄田麻呂は信任を受け、右大弁や大宰帥という官職に任ぜられる。そして宝亀2年(771)には正四位下で参議となり、議政に参画するようになるが、この頃雄田麻呂から百川へと改名したらしい。

 同年、内竪省が廃止され、内竪大輔であった雄田麻呂もその任を終えるところとなるが、翌年3月、皇后・井上内親王が巫蠱(ふこ、呪詛する行為)を行っていたという理由でその地位を奪われる事件が生じ、所生の皇太子・他戸親王も廃せられる。

 後宮を場とする呪詛を理由に皇后・皇太子ともに排除されている点に鑑みて、内竪省がこの事件に全く無関係であったとは考えがたい。とすれば、事の次第を雄田麻呂が認識していた可能性も高く、またその翌年に山部親王、すなわち後の桓武天皇が皇太子の地位についていることからすれば、冒頭で触れた、百川がいなければ自身の即位はなかったと回顧していることに鑑みて、この事件に雄田麻呂が直接関わっていた可能性は否定できまい。

 百川は宝亀10年7月に従三位参議・中衛大将・式部卿として薨去する。その薨伝には、光仁天皇の腹心として内外の機務に関わり、また皇太子・山部親王を奉じて、その病の際には医薬と祈祷に心力を尽くしたとある。確かに、その前年に皇太子は重篤な病に苛まれていたことが認められるが、その功績だけでなく、他戸親王の廃太子を導き、他を差し置いて山部親王の立太子を実現した最大の功労者として、評価を得ていたと受け止めるべきであろう。

 藤原仲麻呂政権から称徳朝、さらには光仁朝に至るまで、いすれの段階でも失脚することなく然るべき要職に就き、またその判断で桓武の即位を導いた藤原百川は、紛れもなく知略に富み平安時代の創始を導いた政治家といえよう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。