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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.19

藤原清河

 舒明天皇2年(630)に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)が派遣されて以来幾度も編成された遣唐使、その時々の情勢を踏まえ、日本古代史上極めて重要な役割を果たしてきた外交使節であるが、奈良時代半ばの天平勝宝2年(750)年に遣唐大使に任ぜられ、二年後に出国したのが、藤原北家・房前の四男の藤原清河であった。女性天皇である孝謙天皇の時代に当たり、その父・聖武太上天皇と母の光明皇太后が後見し、また政界の主導者は橘諸兄から藤原仲麻呂へと変わろうとしていた。

 清河は天平12年(740)に正六位上から従五位上に昇叙され、遣唐大使任命時は従四位下で参議・民部卿の地位にあった。春日の祭祀の日に、光明皇太后が贈った歌と、清河自身が詠んだ歌が『万葉集』に見えている。

 大船おほふねに ま梶しじ貫き この我子あごを 唐国からくにへ遣る いはへ神たち(光明皇太后 巻19・4240)

 春日野に いきつ三諸みもろの 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで(藤原清河 巻19・4241)

 天平勝宝4年閏3月に孝謙天皇より節刀を賜った清河は、正四位下に叙され、副使として大伴古麻呂と、入唐留学の経験をもつ吉備真備、さらに留学生の藤原仲麻呂の息子・刷雄(よしお)らを伴い、唐に渡った。翌年正月、唐都・長安の蓬莱宮含元殿で行われた朝賀の儀式の際に、緊張関係にあった隣国・新羅の使者と席次を争い、その上位に置かれている。時の皇帝・玄宗は清河の態度や作法を高く評価し、日本は「有義礼義君子の国」であると称え、清河に特進(正二品)の地位を与えると共に、彼と副使の肖像画を秘庫に納めた。

 翌年11月、清河は唐に留まり官人となっていた阿倍仲麻呂を伴って帰国の途につく。この時、玄宗皇帝は彼を送る五言の詩を作り、鴻臚(こうろ)大卿という高官を送使として遣わした。清河は私かに鑑真を誘い、第一船に清河と阿倍仲麻呂、第二船に鑑真を載せて蘇州を出航したが、第一船は逆風を受けて安南の驩州(かんしゅう)に漂着し、多くの乗員が現地住民に殺害される中、清河と仲麻呂は何とか逃げ延びて長安に戻った。ちなみに、鑑真の第二船は無事に渡海を果たしている。

 仲麻呂と同様に清河も唐の朝廷に仕えることとなり、河清と名乗った。こののち、天平宝字3年(759)に清河を迎える使者として高元度が日本から遣わされたが、清河を寵遇する玄宗は安史の乱の混乱を理由に清河の帰国を認めず、結局使者だけが日本に戻ることになった。翌年来日した渤海国の使者は、唐に留まる清河から託された上表や貢物をもたらしている。

 未だ帰国を果たせずにいる清河であるが、淳仁朝・藤原仲麻呂政権下の朝廷は、正四位下・在唐大使という身分のまま文部卿(式部卿)に補任し、さらに仁部卿(民部卿)兼常陸守として、従三位に昇叙している。結局、阿倍仲麻呂と同様に清河の帰国は叶うことなく、宝亀4年(773)頃に彼の地で薨去したと見られる。

 その後、清河の功績は歴代の天皇に顕彰され、宝亀10年に従二位、延暦22年(803)に正二位、承和3年(836)には従一位が追贈されている。この間、延暦11年に平城右京にあった清河の旧宅が寺院に改められ、済恩院と号した。阿部仲麻呂と同じような生涯でありながら、没後もこのような厚い待遇を受けたのは、朝廷における藤原氏の地位を反映したものと受け取られよう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。