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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.20

平城天皇(へいぜいてんのう)

 宝亀4年(773)、前年に廃された皇太子・他戸(おさべ)親王に代わり、山部親王(のちの桓武天皇)が立太子すると、翌年その妃・藤原乙牟漏(おとむろ)との間に小殿(おて)親王が誕生する。乙牟漏の父は内臣・藤原良継で、朝廷で最も有力な官人であり、山部の立太子にも影響を与えたと考えられる。

 桓武天皇が天応元年(781)に即位した後、延暦2年(783)に小殿親王は安殿(あて)親王と改称し、その直後に生母・乙牟漏は皇后となる。当時皇太子は桓武の実弟の早良親王であったが、延暦4年の藤原種継暗殺事件で早良親王が亡くなると、代わって安殿親王が皇太子とされた。一説に、早良親王の排斥は桓武が実子・安殿の立太子を目論んだためとも言われる。安殿は未だ12歳で、元服前のことであった。

 4年後の延暦8年、桓武の生母である皇太后・高野新笠が崩御し、その翌年には乙牟漏皇后も亡くなる。相次いで祖母と母を失った安殿は病となるが、この年は天平期以来の天然痘が流行して多くの死者が出た年であった。淡路にある早良親王の墓に墓守が置かれていることから、早良の霊障と受け止められたと見られる。安殿親王の病は長引き、2年後の延暦11年に卜ってみたところ、やはり早良親王の祟りによるものと判明した。

 すでに「早良親王」の項で述べたように、霊障はこの後もなかなか収まらず、延暦25年(大同元年、806)の桓武天皇の崩御もその所為と見なされ、当日東宮の寝殿に血が降り注いだという。このころには安殿親王の体調は回復し、平安京周辺の山火事に際しては、自ら卜筮して賀茂神の祟りであることを確かめ、父・桓武の御陵の位置を変更する。同年即位した平城天皇は積極的に政治に携わり、参議や勘解由使を廃止して六道に観察使を設置し、地方の情勢を把握し行政の整備をはかるなどしている。

 皇太子時代の安殿親王には、藤原種継の娘である薬子がその長女を妃とし、自ら春宮坊宣旨として皇太子に仕えたが、妃である娘を差し置いて自身が皇太子と懇ろな仲となり、桓武天皇の譴責を受け宮廷より放逐された。ところが桓武が崩御して平城が即位すると、再び後宮に仕えることとなり、尚侍という女官の高位につき正三位に叙された。再び病となった平城天皇は、大同4年(809)皇太弟・賀美能(神野)親王に譲位する(嵯峨天皇)。

 同年末に平城上皇は旧都・平城京に移御するが、やがて観察使の扱い等をめぐって上皇と天皇は対立し、翌年今度は嵯峨天皇が病になると、上皇は復位を志し、平城京への遷都の詔を発する。嵯峨天皇はすぐに手を打って東国に通じる三関(東海道の鈴鹿関・東山道の不破関・北陸道の愛発[あらち]関)を固め、薬子の兄・藤原仲成を監禁すると共に上皇に同行していた薬子の官位を剥奪し、仲成はやがて射殺される。挙兵のため東国を目指した上皇は天皇方の軍勢に阻止され、平城京に戻って出家し、薬子は自死するに至った。

 当時上皇は天皇と同等の大権を有しており、その意向は公の命令として威力を発揮した。それ故、平城上皇と嵯峨天皇の関係は、二つの朝廷が一時併存するような様相を呈し、「二所朝廷」とも言われたが、対立時に機先を制した天皇方の動きにより、内乱という大事に至ることなく、この騒動は鎮められた。その要因として、不当にも娘の夫と関係をもった「毒婦」藤原薬子が自身の権力のために上皇をけしかけて起こしたものと位置づけられ、この騒動は長く「薬子の変」と呼ばれた。しかし近年では、天皇大権の所在をめぐる課題から生じたものと評価され、「平城上皇の乱」という呼称が教科書等でも使用されるようになっている。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。