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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.21

会報2024年 冬号掲載
橘嘉智子(檀林皇后)

 天平宝字元年(757)に反乱を企て処罰された橘奈良麻呂の遺児である清友の娘として延暦5年(786)に誕生した嘉智子は、性格が温和で手と髪が長く、目にする人が驚くほどの麗人であった。桓武天皇の皇子である賀美能(神野)親王の室に入り、その寵愛を受けたが、弘仁元年(810)親王の即位(嵯峨天皇)に伴い夫人となった嘉智子は、同6年に皇后に立てられる。この時、嘉智子は仏の瓔珞(ようらく)(装身具)を身に付ける夢を見たという。立后に際して、聖武朝における藤原光明子と同様に「しりへの政」を行う伴侶とされ、嘉智子もまた光明皇后の存在を強く意識するようになった。

 同14年嵯峨天皇は淳和天皇へと譲位し、嘉智子は皇太后となり、夫である上皇と行動を共にして、冷然(れいぜい)院・嵯峨院という後院に移り住む。淳和天皇には嘉智子所生の正子内親王が配されて皇后となり、恒貞親王を儲けた。天長10年(833)淳和天皇の譲位により、やはり嘉智子所生の正良(まさら)皇太子が即位し(仁明天皇)、嘉智子は太皇太后となる。皇后、皇太后からさらに太皇太后として王権の一翼を担った嘉智子であるが、この仁明朝で、承和の変が勃発する。

 承和9年(842)嵯峨太上天皇が嵯峨院で崩御する。その直後に、伴健岑や橘逸勢が皇太子となっていた恒貞親王を奉じて東国へ向かおうとしているという密告を阿保親王から受けた嘉智子は、藤原良房に通告し、健岑・逸勢とその一党は捕縛され処罰されることになる。

 恒貞は皇太子を廃され、代わって良房の妹・順子が仁明天皇との間に儲けた道康親王が立太子した。結果として嘉智子は外孫でなく内孫の皇嗣を選んだことになるが、恒貞の母・正子皇太后は激怒し、嘉智子を怨んだという。

 嵯峨天皇が唐の学問・思想に造詣が深かったのと同じく、嘉智子も教養を重視し、一族の子弟のために寄宿施設である学館院(のちに大学別曹として公認)を創設した。一方で、嘉智子は光明皇后と同様に熱心な仏教信仰者であり、成人する以前の嘉智子を見かけた法華寺の苦行尼・禅雲は、彼女がやがて天皇と皇后の母となると予言したという。また、伊予国神野郡の上仙という修行僧が、転生して郡の名をもつ天皇となると告げて卒し、その上仙を手厚く供養していた同郡橘里の老女が、次の世でも上仙の近くに侍ると言って亡くなるが、神野親王と号した嵯峨天皇と橘氏の嘉智子は、まさしくこの二人の生まれ変わりであると語り継がれる。

 嘉智子は多くの装飾した垂れ旗や刺繍した袈裟を製作して入唐僧の恵灌に託し、唐の高僧や五台山に施した。また、現在の嵯峨・天龍寺の地に檀林寺という日本初の禅寺を建立したが、仁明天皇の重篤な病に際しては、剃髪して尼となり救済を祈願した。伝承として、仏教の諸行無常を自ら示そうと志した嘉智子は、自身の遺体を路傍に放置するように遺言し、朽ちていくその様を広く観察させたと言われ、後世その様子を描いた九相図が西福寺に伝わっている。一方、平安右京の梅宮大社は、橘氏の氏神を嘉智子が祀ったと伝え、嵯峨天皇や仁明天皇と共に嘉智子も祀られている。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。