
歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。
歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。
京都市東山区、建仁寺の近隣に六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)という古刹がある。ここは平安時代より葬送の地として知られた鳥辺野(とりべの)の入口に当たり、六道の辻と称された。この寺院の境内にある井戸は、小野篁が冥土に赴く際に通った「冥土通いの井戸」と伝え、近年近隣の旧境内地から、「黄泉(よみ)がえりの井戸」という戻ってくる井戸まで見つかっている。
篁は昼間朝廷の官人として執務し、夜は冥府で閻魔大王の補佐をしていたという。若い頃、神泉苑の池の神により地獄に引きづり込まれた篁が閻魔大王に会い、その際の遣り取りで篁の聡明さに感銘を受けた閻魔大王が、成人した篁を冥官(みょうかん)に任じたと伝わる。
篁の父である小野岑守(みねもり)は文人の官僚として知られ、即位前の嵯峨天皇の教育に当たっていた。天皇の即位と共に従五位下に叙されて貴族に列し、大宰大弐として大宰府に公営田(くえいでん)という新たな財源となる田地を設定し、一方で最初の勅撰漢詩集である『凌雲集』の撰修に従事するなど、嵯峨朝に多くの足跡を残した。
その子である篁は、14歳のころ国守に任じられた父に従って陸奧に赴き、専ら乗馬に興じたが、文人である父と比して惜しむべきという嵯峨天皇の嘆きを聞き、改心して勉学に勤しむようになる。大学寮の文章生(もんじょうしょう)となり、蔵人を経て天長9年(832)に従五位下で大宰少弐に任じられる。翌10年には皇太子となった恒貞親王の学士を務めたが、令の官撰注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』の撰修にも携わっている。
承和元年(834)遣唐副使に任じられた篁は、二度にわたり渡航を試みるが、いずれも船が難破して失敗する。同5年、遣唐大使であった藤原常嗣の乗る第一船が損傷し、常嗣は上奏して篁の乗る第二船を第一船とした。篁はこの措置に憤り、自身の病と老母の世話を口実に乗船を拒否する。さらに、「西道謡」という批判的な内容の漢詩を作したため、嵯峨太上天皇の逆鱗に触れ、隠岐国に流罪となる。配流に際して詠んだ歌が『古今和歌集』に収められ、また百人一首にも選ばれている。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(『古今集』巻9羇旅歌、百人一首11番)
承和7年、帰京を許された篁は、同9年の承和の変により立太子した道康親王の学士に任ぜられ、以後蔵人頭や弁官の要職を歴任する。同14年に参議となった篁は、嘉承2年(849)従四位上に昇叙されるが病により官職を辞し、一旦復職するも仁寿2年(852)の末に従三位の公卿の位をもって薨去した。
平安末期に成立した説話集『今昔物語集』巻20に、次のような話が見える。学生のころ処罰されんとした篁を擁護した藤原良相(よしみ)が病で亡くなった。良相は閻魔大王の宮に連行されたが、その場に小野篁がいて、大王に良相の免罪を訴えた。これを大王が受け入れたため、良相は蘇生して再び大臣の任についた。篁は良相に口外しないように申し入れたが、いつしか人の知るところとなり、篁は閻魔大王の宮に通っていると噂された。
また、鎌倉時代に虎関師錬が著した仏教史書『元亨釈書』巻9では、以下のように語られる。 篁は大和国の金剛山寺(矢田寺)の満米という僧を敬っていた。閻魔大王から相談を受けた篁は大王に菩薩戒を受けることを勧め、満米を紹介して招き寄せた。授戒の後、満米は地獄の見学を許されたが、そこで亡者に代わって苦を受ける地蔵菩薩に出会った。
京都市北区には小野篁の墓と紫式部の墓が並んで所在し、人間の愛欲を描いた式部の罪を免ずるよう、篁が閻魔大王に申し入れたことに因むとされる。小野篁と紫式部とでは時代が二百年近く異なるが、冥官たる篁のイメージがこのような言い伝えを生んだのであろう。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。