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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.23

在原業平

 父である阿保親王は平城天皇の皇子で、弘仁元年(810)の平城太上天皇の変(薬子の変)に連座して大宰府に配され、上皇が崩御した後に赦され京に戻った。阿保親王は、皇太子であった異母弟・高岳親王の子が臣籍に降下して在原朝臣の姓を賜っていたのに倣い、その子の行平や業平らも同じく天長3年(826)に臣籍に降下させて同じ姓を賜った。親王自身は復帰後治部卿や兵部卿等を歴任したが、承和9年(842)嵯峨上皇の崩御に際して伴健岑より皇太子・恒貞親王を奉じて東国へ赴くように依頼されたのに対し、密書で皇太后・橘嘉智子に告げたことから、健岑と橘逸勢は捕縛され、恒貞親王は皇太子を廃される承和の変が勃発することになる。

 在原業平は阿保親王と桓武天皇の皇女である伊登内親王との間に生まれ、嘉祥2年(849)15歳にして従五位下に叙された。清和朝で右馬頭の任についた業平は、陽成朝の元慶4年(880)に従四位上右近衛権中将兼美濃権守として56歳で逝去する。官人としては特筆すべき点がなく、その卒伝には「ほぼ才学なく、善く倭歌を作る」と評される。勅撰和歌集に多くの歌が見えるが、紀貫之は『古今和歌集』の仮名序で「その心余りて詞(ことば)たらず しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と表現の物足りなさを指摘している。

 それでも、藤原公任の『三十六人撰』で三十六歌仙の一人に数えられる業平のよく知られた作といえば、『小倉百人一首』にも選ばれた次の歌であろう。

 ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (17番)

 落語の演目や競技かるたを題材とした漫画のタイトルにもなった「ちはやふ(ぶ)る」はこの歌に因むといわれるが、二条后とよばれた藤原高子(たかいこ)が所有する屏風に描かれた絵を見てこの歌を詠んだとされる。高子は藤原長良の娘で、初の関白となった藤原基経の同母妹にあたる。清和天皇の女御で、所生の貞明親王が即位したことで(陽成天皇)皇太夫人から皇太后となった。高子と業平はかつて恋仲であったと言われるが、業平は他にも多くの女性と浮き名を流したことが『伊勢物語』より知られる。

 『伊勢物語』は平安期に成立した作者不詳の歌物語、固有名詞ではないものの登場する主人公の「男」は明らかに在原業平で、その縁者が著したとも考えられる。そこには歌に加え、業平にまつわるさまざまな逸話や伝承が収載されている。全てが事実に即したものとは認められないが、概ね業平の生涯が知られ興味深い。後世の歌人や文学作品に与えた影響は大きく、多くの注釈書も著された。

 業平の初冠(ういこうぶり)に春日里で美しい女性に歌を贈ったことからはじまり、二条后との関係、彼の妻となる紀名虎の孫娘、文徳天皇皇子でやはり紀名虎の孫に当たる惟喬(これたか)親王との親交、その妹の恬子内親王と思しき伊勢斎宮との禁断の関係や、真偽の程は定かでないものの、東国下向の話まで見えている。

 『伊勢物語』が流布したことで在原業平は広くその名が知れ渡り、各地に業平にまつわる伝承が残された。奈良市の不退寺は仁明天皇の発願で業平の開基といい、もと平城上皇の隠棲の地で、業平の父・阿保親王もここに住んだと伝える。また、同じく奈良県天理市の在原神社は『伊勢物語』二十三段で幼少の業平の遊ぶ姿を描いた「筒井筒」の舞台とされ、ここから業平が河内国高安の女性に逢いに通ったという竜田道(横大路)は業平道ともよばれ、斑鳩町では業平橋という橋が富雄川に架かっている。

 一方、東国下向の伝承に従い、東京都墨田区と埼玉県春日部市に業平橋があり、これに由来する東武鉄道の業平橋駅は、近年とうきょうスカイツリー駅と名を変えた。このほか、京都市や滋賀県、岐阜県にもその居住の地と伝える場所があるなど、業平ゆかりの地は今日でもその地名や遺跡で存在感を示している。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。