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日本の古代を築いた人びと

歴史の記録はどうしても中央の情勢が主体となりがちですが、
それぞれの地域で独自の展開があり、また中央との密接な関係を窺わせるものもありました。
今年度も引き続き、日本古代史上の有名な人物の足跡を辿り、
畿内に所在した朝廷と各地域との関係を追ってみたいと思います。

 
Vol.24

清和天皇

 嘉祥3年(850)3月、仁明天皇が崩御し、皇太子の道康親王が践祚する。その直後に誕生したのが惟仁(これひと)親王で、道康親王(即位して文徳天皇)の第4皇子にあたる。母は右大臣藤原良房の娘・明子で、良房の邸宅である左京一条第で誕生する。同年11月には、3人の異母兄を差し置き、生後8ヶ月で皇太子となった。文徳天皇自身は、紀名虎(きのなとら)の娘との間に儲けた第1皇子の惟喬親王の皇嗣を望んだが、良房を憚った官人の合意が得られなかった。

 天安2年(858)、その文徳天皇が突然の病を得て32歳で崩御すると、皇太子・惟仁親王は僅か9歳で即位する。元服前の皇太子の即位というのは、前代未聞の出来事であった。当然、政務は良房に委ねられたが、これが実質的な「人臣摂政」の始まりと言われる。一方で、天皇の務めである神祇の祭祀が幼帝に可能であったかという点を考えると、そこに大きな問題が見出される。

 天皇の基本的属性は、一年を通じて天神地祇の祭拝を務めとすることである。この宗教的権能を保有する条件として血統が重んじられ、その地位は世襲された。世の皇帝・国王に共通する行政的権能は、全体を総覧する立場にあるとは言え日本の天皇にとっては付随的であり、時として太上天皇・皇后・皇太子等のミウチが代行し、実務は律令官人に委ねられた。しかし、神祇の祭祀については、血の繋がったミウチと言えども、全面的に代行することは困難とみられた。その意味で、清和天皇の即位は、天皇の基本的属性に変化を来す事態であったと受け取られる。

 清和天皇は容姿端麗、温和な性格で、読書や仏教の修学を好んだという。貞観6年(864)の元服後も藤原良房が朝廷に重きをなし、同8年に著名な応天門の変が生じた際も、一旦は放火の罪に問われた左大臣源信(みなもとのまこと)を、天皇に奏上して無罪とするなど、大きな影響力を有した。この年天皇は太政大臣に天下の政を摂り行わせるという勅を発し、良房は名実共に摂政となる。

 同14年に良房が薨去すると、良房の兄・長良の子で良房の養嗣子となっていた基経が摂政を継いだ。ただ、天皇の意を全く介さず、対立を辞さずして良房・基経の父子が専権を振るったという訳ではなく、天皇が二人を信頼して政務を委ねていたことから、後世貞観年間は理想的な時代という評価もなされた。

 貞観18年、清和天皇は皇太子・貞明(さだあきら)親王に譲位する。即位した陽成天皇は、基経の同母妹の藤原高子(たかいこ 二条后)を母とし、父と同じく9歳での即位で、右大臣の基経はそのまま摂政の任にあたった。

 3年後の元慶3年(879)、清和太上天皇は後院である清和院から基経の山荘であった粟田院にうつり、ここで出家し素真と名乗る。その後、山城・大和・摂津の名刹等を巡幸した太上天皇は、丹波の水尾山を終焉の地とすべく、仏堂の建立を発願すると共に、左大臣源融(みなもとのとおる)の別亭の嵯峨・棲霞観(のちの清涼寺の地)で修行を志した。

 しかし、程なくして病となり、粟田の円覚寺に於いて崩御する。近侍の僧が読経する中で、西方に向かって結跏趺坐し、手に定印を結んで最期を迎えたという。崩年31歳、清和太上天皇の遺体は坐したまま棺に納められ、遺詔により火葬に付して陵墓は営まれなかった。

 なお、立命館中学校・高等学校の同窓会である清和会の名称は、前身である清和普通学校にちなむが、「清和」は御所東方の清和院御門という、清和天皇の後院の所在から名付けられた門名によるものであった。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。