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神と仏と古代日本

このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。

 
Vol.2

神功皇后の人物像

 『日本書紀』全30巻のうち第9巻は、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の生涯を記したもので、神功皇后紀と呼ばれる。神功皇后は開化天皇の曾孫・気長宿祢王の娘で仲哀天皇に嫁ぎ、皇后となった。注目すべきは、この神功皇后紀に、邪馬台国の女王・卑弥呼について触れた『魏志』倭人伝の引用が見えることである。

 神功皇后三十九年条に、魏の明帝の景初3年(239)に倭の女王が大夫難升米(なしめ)を使者として遣わしたこと、翌正始元年条に魏王の詔書印綬が倭国に与えられたこと、同三年条に再び倭王が使者を遣わしたことが記されている。これは明らかに、養老4年(720)に成立した『日本書紀』の編者が、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼と同時代の出来事とし、神功皇后に卑弥呼の性格を反映したからに相違ない。

 夫の仲哀天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)の子とされる。即位後越前の敦賀に行宮を営み皇后も同行したが、天皇が紀伊に行幸していたときに、西海道(九州)に居住する熊襲(くまそ)と呼ばれた集団が朝廷に反旗を翻し、朝貢を拒否する。天皇は西国に向かい、穴戸の豊浦津(現・山口県豊浦郡)で皇后と合流する。九州に渡り筑紫橿日宮(かしひのみや)に至ったとき、神が皇后にかかって託宣を発した。それは、神を祭り、熊襲より豊かな地である新羅に遠征し、戦わずして服従させよと告げるものであった。

 ところが仲哀天皇は、丘に登り見渡せどそのような国は見当たらないとして、神の言葉を受け入れない。であれば、今皇后が懐妊している子に服従させることにしようと神は告げる。結果、仲哀天皇は熊襲との戦いに敗れ、崩御するに至る。皇后は天皇の喪を隠し、斎宮を設営して自ら祭主となり、神の意向を伺う。その託宣に従って熊襲を服従させ、さらに海を渡り征討を志す。この時皇后は男装し、「上は神霊を蒙り、下は群臣の助けにより、兵を起こし船を整えて渡海し、宝の国を求めよう」と宣したという。

 凱旋した皇后は筑紫で誉田別皇子(ほむたわけのみこ、のちの応神天皇)を出産する。この皇子を連れて大和に向かい、反抗する異腹の皇子の忍熊王(おしくまおう)らを撃ち破り、大和の磐余の地で誉田別皇子を皇太子とし、自身は半世紀以上皇太后・摂政として君臨したとされる。

 『日本書紀』の一巻を占める伝であることから、明治時代に至るまで神功皇后を歴代天皇に含める意見も存したが、大正15年(1926)の皇統譜で歴代からは外された。行状も史実とは認められない部分が大きく、仲哀天皇とその父・日本武尊と同様に、神功皇后も架空の人物と見なす向きが強い。いすれにせよ、『日本書紀』編纂段階での作為は否定できないが、そこには『日本書紀』がイメージする天皇・皇后と神祇との関係が象徴的に表されていて、大変興味深い。

 仲哀天皇は神託を信じなかった故に崩御に至り、逆に神功皇后は祭主として神の意向を尊重する行動を取り、熊襲のみならず新羅まで制圧した。一方、『魏志』倭人伝によれば、邪馬台国は男王では混乱を収拾することができず、神意を承ることを常とする女王・卑弥呼により安定がもたらされたとされる。『日本書紀』編纂の時期に鑑みて、卑弥呼を反映した神功皇后の人物像には同時に、吉野に行幸し伊勢にも赴いた持統天皇の姿を彷彿させるものがあるように思うのである。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。