このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。
応神天皇の9年に、武内宿祢(たけしうちのすくね)が農民の視察に筑紫に遣わされた。武内宿祢と言えば、景行天皇から仁徳天皇の五代の天皇に仕え、応神天皇の母・神功皇后のもとでも活躍した人物で、蘇我氏や平群(へぐり)氏などの祖として知られる。その不在の時期をねらって、弟である甘美内宿祢(うましうちのすくね)が兄の謀反を讒言する。応神天皇はこれを受けいれ、武内宿祢の殺害を命じた。
冤罪を嘆く武内宿祢に対し、壱岐直(いきのあたえ)氏の祖である真根子(まねこ)が、よく似た自分が身代わりになると申し出、剣で自殺する。武内宿祢はひどく悲しみ、密かに筑紫から南海を経由して朝廷に戻り、天皇に無実を訴えた。天皇は二人の宿祢を問い質したが決しがたく、神祇に判決を委ねることになり、磯城川(しきがわ、現・初瀬川か)の川辺で盟神探湯が行われた。
『隋書』倭国伝には、倭国(日本)の習俗の一つとして「沸いた湯の中に小石を置き、競う所の者にこれを探らしむ。理の曲りし者はすなわち手が爛ると云ふ」とあり、これが盟神探湯を指すものと思われる。ここでは熱湯の小石を探るとあるが、熱湯に沈む泥を手に取ったり、熱した斧を掌に乗せて行う場合もあり、いずれも手が爛れると敗訴となる神判であった。この時甘美内宿祢の手が爛れ、勝利した武内宿祢は即座に弟を横刀で成敗しようとしたが、応神天皇が押しとどめ、紀直氏の祖である人物の奴としたとされる。
ついで史料に見える盟神探湯の事例は、3代後の允恭天皇4年9月で、身分指標とされた氏姓(うじかばね)が混乱してきたため、それを質すために諸人に盟神探湯が課せられた。甘樫丘の辞禍戸砷(ことのまがへのさき、『古事記』では言八十禍津日前)に釜を据え、火傷を負えば偽りと判じた。諸人は木綿(ゆふ、楮の皮から作った繊維)のたすきを掛けて盟神探湯に臨んだが、心にやましいところのある者は火傷を恐れて尻込みしたため、自ずから真偽が判明したという。
因みに、大和飛鳥の甘樫丘(現・奈良県明日香村)の北西に鎮座する甘樫坐(あまかしにます)神社は、武内宿祢の創建と伝える延喜式内社で、もと八十禍津日神等の四神を祭り、ここが盟神探湯の行われた場所と伝える。毎年4月の第1日曜日には、この神社で盟神探湯の神事が催されている。
時代が下り、室町時代(15・16世紀)にも同類の神判が行われた。湯起請(ゆぎしょう)と呼ばれ、起請文を作成した後、熱湯に手を入れて石を拾い上げ、手の爛れ具合から勝敗を決するもので、境目(土地の境界)の相論などでこの方法が用いられた。ただ、古代の記録から遠く時代を隔てた事例であるため、これが盟神探湯に由来するものであるか否かは定かでない。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。