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神と仏と古代日本

このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。

 
Vol.4

仏教の公伝

 6世紀に百済の王朝から欽明天皇の朝廷に使者が送られ、仏教の文物がもたらされた。これを一般に仏教公伝と呼んでいる。当時百済は、境を接する高句麗や新羅と争っており、倭と呼ばれた日本に兵力等の提供を求め、関係を強化しようとしていた。それ以前から日本に渡来した人々によって、 仏教の思想は既に伝わっていたと推測されるが、公の外交ルートを通じて仏像等が贈られたのは、これが初めてであった。

 仏教の公伝を伝える史料としては、『日本書紀』と『元興寺縁起』の二つがよく知られている。『日本書紀』では、欽明天皇13年(壬申・552)10月に、釈迦金銅像一体と幡蓋(ばんがい、さしかける傘)若干、経論若干巻が百済の聖明王から献上されたという。一方『元興寺縁起』では、欽明7年(戊午・538)12月に、悉達(シッダ)太子像(幼少の釈迦像)と灌仏の器、仏教の起こりを説いた書巻がもたらされたと伝える。

 百済王の国書により仏教の信仰が勧められたとする点では共通し、この時欽明天皇は諸臣に受容の可否を諮問した。大臣・蘇我稲目は、諸国は既に受容し崇めているので、わが国も崇めるべきと主張したのに対し、大連・物部尾輿(おこし)と中臣鎌子は、わが国の神々の怒りを招くことになるので拝すべきではないと反論する。そこで天皇は、『日本書紀』によれば受容を訴える蘇我稲目自身に、『元興寺縁起』では稲目の進言により娘の大々王(おおおう、のちの推古天皇)に贈られた文物を授けて崇めさせたとされる。

 受容に反対する物部尾輿らは、「わが国の天下に王たる者は天地社稷(しゃしょく)の百八十神を一年中祭拝することを務めとする」として、天皇に拒否を求めたと『日本書紀』に見える。これは興味深い表現で、当時大王と称された天皇は、何よりも神祇の祭祀がその地位と職能を規定すると受け止められている。換言すれば、一般の政務にも優先して、祭祀こそが大王(天皇)の最重要な役割と考えられた。それ故、仏教の特性を検討する以前に、異国の神と見なされた仏・菩薩を拝することは言語道断と訴えられたのである。

 本来姿形をもたなかった日本の伝統的な神々に対して、仏像で表現された仏教の礼拝対象は、欽明天皇の関心を引き、感嘆させたと『日本書紀』は伝える。ただ、この書が成立した8世紀初頭の段階で、既に日本の社会に仏教が受け入れられ、朝廷もその興隆を図っていたことからすれば、欽明天皇の反応については慎重に考える必要があり、直後に反対派の意見を採り入れ廃仏を許可していることからして、むしろ天皇自身も、仏教の受容には消極的であったと受け取られる。いずれにせよ、朝廷の仏教に対する姿勢は一致を見ず、政治権力抗争と相まって、混乱を導くところとなった。

 ところで、上記の天皇の宗教的役割に関する叙述は、貴重な示唆を与えていると判断される。すなわち、余人を以て代えがたい大王(天皇)固有の性格とは、まさに神祇祭祀を統括する存在という点にあった。とすれば、長い日本史の展開を考える上でも、たとえば皇嗣の問題を取り上げる場合、行政的権限や力量ばかりに注目するのでなく、祭祀の権能についても、もっと配慮する必要があるように思うのである。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。