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神と仏と古代日本

このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。

 
Vol.5

会報2026年 夏号掲載
仏教の受容と病

 仏教の公伝があった6世紀中葉の欽明天皇の時代から、続く敏達天皇の時代にかけては、受容の可否をめぐる蘇我氏と物部氏の抗争があり、仏像や仏殿の破却といった廃仏の行為も見られた。天皇自身は日和見的な姿勢を示したように伝えるが、敏達天皇が仏教を信じなかったと『日本書紀』に明記されるように、むしろ受容を拒否する意向であったとも受け取られる。ただ、疫病の流行に際して、伝統的な神々の怒りを招いたという大連・物部守屋ら受容反対派の意見を容れ、廃仏を許可しながらも、大臣・蘇我馬子に対しては、個人的な仏教信仰を認めていた。

 天皇としてはじめて仏教受容の意向を示したのは、敏達天皇を嗣いだ弟の用明天皇で、天皇は仏法を信じ神道を尊んだと評された。その契機となったのは、天皇自身の病である。用明2年(587)4月2日、新嘗祭に臨んだ天皇は、病となり池辺双槻(なみつき)宮に戻り、仏教への帰依を群臣に諮る。欽明朝の公伝の時と同様に、物部氏や中臣氏は神々に背くことになると反対したのに対し、蘇我馬子は天皇の意向に従うべきと反論する。結局、天皇の弟の穴穂部皇子が豊国法師を連れて内裏に入ったが、同月9日天皇は崩御に至る。

 これに関連して、法隆寺金堂に安置された薬師如来像の光背銘には、天皇が丙午年(用明元年)に妹の額田部(ぬかたべ)皇女(のちの推古天皇)と子の厩戸皇子(聖徳太子)に、病気平癒を祈願して薬師像の製作を詔したと見える。この銘文は7世紀後半以後に追刻されたと考えられるが、当時伝えられた用明天皇の意向を反映したものと見なして大過なかろう。薬師如来という、もっとも病の平癒と関係の深い仏像を製作しているのも、その契機が病にあったことを窺わせている。

 天皇の身体の保全が最重要な課題であったことは言うまでもないが、罹病した場合、伝統的な神々に対する祭祀では、直接病者に施す具体的な方策をもたなかった。これは、病を神々が忌み嫌う穢れの一種と認識していたからであり、清浄性を維持するために、むしろ病者を神々から遠ざける必要が存したのである。これに対し、仏教では逆に、病者の救済は出家者が進んで実践すべき行為として奨励され、実際に僧侶は、医方明(いほうみよう)と呼ばれる医学や薬学の知識・技術を、関連書籍や修行体験を通じて習得していた。それ故、豊国法師のように、重要な人物の病に際しては、この方面で評価の高い僧が招請され、看病に従事することになった。

 先に紹介した蘇我馬子に対する仏教信仰の認可も、馬子が自身の病を治すのに仏教の力に頼らざるを得ないと申し出たことによる。こののち、日本古代史に高僧として名を残す僧侶の大半は、修行で培った呪力と同時に、実践的な医療の知識・技術を身に付けていたことが認められ、奈良時代の玄昉と聖武天皇、道鏡と称徳天皇のように、治病の行為を通じて、僧侶と天皇との間に強い絆が生じることも往々にして見受けられた。してみれば、仏教の受容に最も影響を及ぼした要因として、病への対処に注目する必要があろう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。