このシリーズでは、在来の神々に対する信仰(神祇信仰)が存在した日本の古代社会に、どのような過程で外来の宗教である仏教が受け容れられ、それぞれの段階における特色が形成されたのか、歴史的な意義について考えます。
用明2年(587)4月、厩戸皇子(聖徳太子)の父・用明天皇は崩御する。その後、朝廷の有力者であった蘇我馬子と物部守屋の対立が皇嗣の擁立をめぐって激化し、武力衝突(丁未の乱)へと発展する。欽明天皇に二人の妹が入内し、血縁の皇子女を有した蘇我馬子は、彼らを味方に付け、物部守屋のいる河内へと軍を進める。激しい戦闘の結果、守屋は戦死し、馬子は用明天皇の異母弟の崇峻天皇を即位させた。
ところが、5年後にこの天皇は馬子により暗殺され、史上初の女性天皇とされる推古天皇が即位する。推古2年(594)に天皇は皇太子とした厩戸皇子と大臣の蘇我馬子に対し、三宝の興隆を命じた。これが具体的に何を意味するのか、仏教思想の普及や信仰の奨励といった解釈も見受けられるが、これに応じて諸臣が君親の恩のために競って寺院を造ったとあることからすれば、即断することは憚られる。というのは、寺院を造営することが、必ずしも思想の普及や信仰の奨励を目的としたとは言い切れないからである。
古墳の築造が衰退する時期に寺院の造営が始まったことから、古墳から寺院へという推移が指摘されるが、特に生前に築かれた大規模な古墳は、死後の生活の場を想定したというばかりでなく、権力の象徴としての性格を有したことを忘れてはならない。即ち、最先端の技術と資材の調達で建立が可能となる寺院こそは、古墳に代わる権力の象徴となり得たのであり、この点が重視されたと考えられるのである。
伝統的な神祇の祭祀では、神々は清浄なる場に降臨するものと受け止められ、甘南備(かんなび)と称される形の整った山や、その頂点・中腹にある磐座(いわくら)という神の座に適した岩石などが、神の坐す場所として結界され、そこで祭祀が行われた。元来「神像」といったものは存在せず、降臨の場所が祭拝の対象となったのである。ところが仏教では、公伝当初から祭拝対象の仏像がもたらされ、それを安置する施設や伽藍は煌びやかに荘厳された。寺院は十分に古墳に代わる役割を担えたのである。
最も早い段階で建造されたのは蘇我馬子の発願にかかる飛鳥寺(法興寺)で、丁未の乱の際の戦勝祈願をきっかけに、百済から渡来した工人たちの技術を用いて造営された。次いで、厩戸皇子ゆかりの斑鳩寺(法隆寺)や推古天皇の豊浦宮に位置する豊浦寺等が相次いで出現するところとなる。そして、この時期に高句麗や百済からやって来た慧慈・慧聡といった僧がこの寺院で仏教の教義を研鑽し広めたことから、思想面でも仏教の影響が次第に強まることになった。
厩戸皇子もその薫陶を受け、仏教思想を深く理解したと評される。確かに、推古14年(606)に勝鬘経や法華経を天皇に講説したと言われ、著作とされる三経義疏も伝えられたことからすれば、教義に対する深い理解が存したのであろうが、次の皇位を担うべき皇太子の立場にあった点に鑑みて、その信仰心が政策判断の基盤となったと見なすのは早計であり、慎重に多角的な検討を加える必要があろう。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。