
平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。
『日本霊異記』上巻の第一縁(話)は、雄略天皇の時代、雷を捉えた話で始まる。天皇が雷鳴を聞き、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)という侍者に、雷を迎えてこいと命じられた。栖軽は赤い鬘(かずら)を額につけ、手に赤い幡をつけた鉾をもって馬に乗り、磐余(いわれ)宮から阿倍の山田道を通り、豊浦寺の前を過ぎ軽の諸越(もろこし)の衢(ちまた)(町辻)に出た。そこで「天の鳴神よ、天皇がお招きになっているぞ」と叫んだ。馬を返して走りながら、「雷神と言えども、天皇のお召しを拒むことは出来ようか」と口にすると、豊浦寺と飯岡の中間の所に雷が落ちていた。栖軽は神官を呼び、雷を竹で作った輿に入れて宮に持ち帰り、天皇にお招きしましたと報告した。光を放って明るく輝く雷を目にした天皇は、恐れて多くの幣帛を捧げ、落ちていた所にお戻しせよと命じられた。今、雷岡(いかづちのおか)と呼んでいるのがその場所である。
その後、栖軽が逝去すると、天皇は忠義を偲んで雷岡に墓を作り、「雷を捉えた栖軽の墓」という碑をお立てになった。すると雷は栖軽を怨んでこの墓に鳴り落ち、碑を踏み割いたが、その割れ目に挟まれ動けなくなった。天皇がこれを聞いて雷を解き放たせたところ、雷はぼんやりとしてそこに七日七夜留まっていた。勅使が改めて碑を立て、「生きても死んでも雷を捉えた栖軽の墓」と刻んだ。これが雷岡という地名の由来である。
雷岡(丘)は、現在も奈良県高市郡明日香村大字雷に残っている。
標高110mの丘で、万葉歌人の柿本人麻呂は、
大君は 神にしませば
とこの岡を詠んでいる。また、話に登場する阿倍の山田道は磐余から南の方向に延びる古道で、沿道に阿倍氏の本拠があり、安倍寺跡が残っている。間違いなく古代の主要な官道であった。山田は大化の新政府で右大臣に任じられ非業の最期を遂げた蘇我倉山田石川麻呂の本拠で、その氏寺である山田寺の遺跡もこの道沿いに所在する。仏教伝来以前の雄略朝の出来事であることから、豊浦寺の前を過ぎるというのは後世の状況を反映したものであるが、地理的には矛盾していない。
主人公である少子部栖軽は『日本書紀』にも登場する。雄略朝の六年、天皇は后妃に養蚕をさせるため、栖軽に命じて国中の蚕を集めさせた。栖軽は誤解して蚕でなく嬰児を集めて天皇に奉ったので、天皇は爆笑され、嬰児はおまえに与えるので養育せよ、と命じられた。そこで栖軽は宮の周囲でこの嬰児を育てることになったが、これに因んで少子部連という姓を賜った、と伝わる。
雷を竹製の輿に入れて運んだという内容も興味深い。雷は稲と交わって稲にエネルギーを与え豊作をもたらすと考えられ、雷神を祭る神社も多い。一方で落雷による被害が恐れられた。雷が多発する北関東には、多くの雷神社が鎮座する。落雷があった場所は斎竹(いみだけ)を四方に立てて注連縄(しめなわ)が張られ、結界された。その地に留まって田を荒らされることを恐れ、雷が天に戻りやすくするために竹を立てたとも言われている。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。