
平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。
古代の朝廷は諸国に牧を置き、馬と共に牛を飼育していた。馬が乗用に供されたのに対し、牛は乳牛として飼育され、宮内省配下の典薬寮という役所が管理し、乳(牛)戸とよばれた農民により飼育と搾乳が行われ、発酵乳や乳酪が作られた。一方、『日本霊異記』に使役される牛の話があるように、民間でも牛は飼育され農耕などに使われていたようで、霊亀2年(716)廃墟となった寺の地に馬や牛が群れているとして対策を命じている。
天平13年(741)、聖武天皇は、馬や牛は人に代わり勤労して人を養ってくれるものであるが、先々より禁じているにもかかわらず屠畜が行われ、国や郡が取り締まっていないとして、当事者に厳しい処罰を命じた。屠畜の目的は色々あったように思われるが、『日本書紀』には、皇極元年(642)に村々で祝部(はふりべ)の教えるところに従い牛馬を殺して諸社の神を祭り、雨乞いをしたが効果がなかったという記事が見える。
このことに関連して、中国の民間で行われた殺牛信仰の影響を受け、屠牛により漢神(からかみ)を祭った話が『日本霊異記』中巻第五縁で説かれる。
聖武天皇の時代、摂津国東生郡撫凹村(ひがしなりぐんなでくぼむら、現・大阪市東成区)の富豪が、漢神の祟りにより毎年1頭の牛を7年間続けて生け贄として捧げ祭っていた。7年の祭りの期間を終えた時点で重病となり、祈祷も効果が無かった。富豪はそれが殺生の罪の報いと考え、以来月の六斎日(8・14・15・23・29・30の6日)に戒律を守って生き物を解き放つ放生(ほうじょう)を行い、他人が行おうとする殺生に代償を払い、また八方に使者を送って生き物を購入し放っていたが、7年目に臨終を迎えることになり、9日間荼毘に付すなと遺言して亡くなった。すると9日目に蘇生し、次のように語った。
死後の世界に旅立った私は、頭部が牛の7人に縄を掛けられ、閻羅王(えんらおう、閻魔大王)の前に連行された。7人は王の許しを得て私を切り刻もうとしたが、その時千万余の人が現れ、私の縄を解き、牛の殺生は祟る鬼神(漢神)を祭ろうとしたからで、私の咎ではないとして免罪を訴えた。その人びとはまさに私が解き放った生き物で、恩に報いんとしたのであるが、殺された牛である7人は納得せず、自分たちがされたのと同じように、切り刻んで食べさせて欲しいと主張した。
それから8日を経て、閻羅王は多数の人びとの意見に従うとして免罪を認めた。敗れた牛頭の7人は怨み言を口にし、いつか報復するぞと訴えたが、私は彼等に左右前後を囲まれて閻羅王の宮を出、輿に乗せて担がれ、幡(はた)を捧げて導かれた。
こうして富豪は蘇生することになったが、以後仏教に帰依して自身の家を寺とし、放生を行って90余歳まで生きたという。この話が伝えるように、どうやら牛は、搾乳や使役を目的に用いられただけでなく、神へのお供えとされ、またその肉を食べることもあったようである。
くだって長岡京の時代の延暦10年(791)、伊勢・尾張・近江・美濃・越前・紀伊の6国で、牛を殺して漢神を祭ることが禁断されている。さらに平安遷都後の同20年にも、越前国で屠牛して神を祭ることが禁じられているが、渡来人の系譜をひく人びとが多く住み着いた地域で、中国の民間信仰が根付いたとも考えられる。このころ藤原種継暗殺事件に関わって死去した早良(さわら)親王の怨霊が桓武天皇やその近親者を悩ませていたことから、怨霊思想の民間への流布を懸念した禁制という評価も呈されている。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。