
平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。
2015年、邪馬台国関連施設の可能性が指摘されている奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半期の溝から犬の骨が見つかった。その骨格から復元が試みられ、纒向犬と名付けられた体長約60㎝の犬の模型が公開されている。この時代から犬は、今日と同様に人々の生活と馴染みの深い存在となっていた。
『日本書紀』垂仁天皇紀には、昔、丹波国の桑田村(現・京都府亀岡市)で甕襲(みかそ)という人が飼っていた足往(あゆき)という名の犬が、山にいた狢(むじな、タヌキか)を噛み殺したところ、その腹から八尺瓊(やさかに)の勾玉(まがたま)が見つかり、当時石上神宮に収められていたと見える。現在亀岡市に、曽我部町犬飼或いは西別院町犬甘野という地名があるが、『同』安閑天皇紀に「詔して国々の犬養部を置く」とあるように、各地に犬を飼養する集団が設定され、地名と同様に「犬養」「犬甘部(いぬかいべ)」「県犬養(あがたいぬかい)」といった氏族が存在した。狩猟や朝廷の直轄地の管理に犬が使われたと見受けられる。
『日本霊異記』の説話にも飼い犬が登場する。上巻第2縁では、美濃国大野郡(現・岐阜県揖斐郡大野町の辺り)で人間の女性に変身して結婚し生活を送っていた狐が飼い犬に吠え立てられ、ついに正体が暴かれて夫のもとから去ることになる。犬と狐がセットで扱われた例は『日本書紀』斉明天皇紀にも見られ、出雲の国造に神宮を修築させようとしたところ、狐が綱として使用する葛の末端を喰いちぎり、また犬が死人の腕を言屋社(いうやのやしろ、揖屋神社)に置いていったという。
下巻第2縁でも、犬と狐にまつわる話が展開する。平城京・興福寺の永興という僧が紀伊国牟婁郡熊野村(現・和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡、三重県南牟婁郡・北牟婁郡の辺り)で修行していた時、寝泊まりしていた寺で病人に祈祷を行った。祈祷を受けると病状は回復するが、途絶えると再発するといった状況が続く。意気込んだ永興が呪文を続けると、狐の霊が病人に取り憑き、祈祷を止めるように告げた。永興が理由を尋ねたところ、この病人に前世で殺された狐で、仇を討とうとしていると言う。さらにその霊は、やがて病人は死んで犬に生まれ変わり、今度は自分を殺すだろうと予言した。永興は教え諭そうとするが受け入れず、結局病人は死去するに至る。
一年後、その病人の寝ていた部屋で、永興の弟子が病気で伏せっていた。すると、ある人が連れてきた犬が怒って吠え立て、首輪や鎖を切って走り出そうとする。永興の指示で飼い主が犬を放すと、弟子の寝ている部屋に入り、狐を咥えて引き出し噛み殺してしまったという。怨みによる仇の連鎖は途絶える事がないため、忍耐の心を養うことを訴えて話は終わる。下巻第1縁にも登場する永興は南菩薩と称された実在の僧で、宝亀3年(772)には持戒・看病の経歴が評価され、朝廷より天皇等の看病に従事する十禅師に任ぜられた。
犬への転生という件は上巻第30縁にも見受けられる。豊前国宮子郡(現・福岡県京都郡)の郡司である膳臣(かしわでのおみ)広国は、急死して3日目に蘇生し、見聞したことを語る。閻魔大王の裁きを受けた後、地獄で責め苦にあう亡父に出会った。亡父は、死去した年の7月7日に大蛇となって家に行ったところ、広国に棒で引っかけ捨てられ、翌年の5月5日に赤い子犬となって入ろうとすると、他の犬をけしかけて追い払われ、今年の正月1日に猫となってようやく供養の食物を得、三年来の空腹を癒やすことになったと言う。
大蛇・犬・猫に転生して生前の自宅に赴き食事を求めたというのは、畜生道に堕ちたことを現している。ここでは地獄の責め苦を受けながら、やがて再び犬となって食をあさることになるだろうと亡父は告げる。人間、畜生、地獄から再び畜生へと、六道を輪廻する姿が見て取られるが、身近なところにいる犬についても、前世の人間が悪業により畜生道に生まれ変わったもので、専ら食欲を満たすことに執心する存在として受け止められていたのであろうか。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。