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『日本霊異記』の世界

平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。

 
Vol.7

母子にまつわる縁

 大和国添上郡(現・奈良市東部)に住むある女性は、娘の家族が地方に赴き、自身は家に留まっていたが、1年ほど経って悪い兆しを告げる夢を幾度も見た。貧しい彼女は自分の衣服をお布施としてお経をあげてもらった。地方で暮らす娘の2人の子供が庭で遊んでいると、7人の僧が建物の上でお経を読む姿を見かけた。子供の知らせで娘が家から外に出た途端、壁が倒れ僧の姿も消え失せた。九死に一生を得た娘はこのことを女性に知らせたが、女性は読経の功徳と確信し、信仰をさらに厚くしたという(中巻第20縁)。

 また、平城左京で9人の子を持ち貧しい生活を送る海使蓑女(あまのつかいみのめ)は、穂積寺の千手観音に願をかけ幸福を願っていた。天平宝字7年(763)10月10日、馬糞を足に付けて来訪した妹が、蓑女に革製の櫃を預けて去った。いつまでも取りに来ないため、蓑女が赴いて妹に尋ねたが、心当たりがないという。櫃の中には銭百貫が入っていた。蓑女が千手観音に参詣すると、観音像の足に馬糞が付いていた。3年経って寺の修理用の銭百貫がなくなっていることがわかり、その銭は千手観音が彼女に恵み与えたものであることが分かった(中巻第42縁)。

 どちらも子に対する母親の慈愛を信仰による功徳と結び付けた展開になっているが、子の親に対する孝養を訴える説話も見受けられる。親不孝が招いた悲惨な結果を示す三つの縁を紹介しよう。

 孝徳天皇の時代に学生であった大和国添上郡の瞻保(みやす)という人物は、専ら読書にふけり母親を養わなかった。瞻保の稲を借りて代償がなく土下座する母親を責め立て、友人の諌言を受けても聞き入れない。見かねた他人が母親に代わって借財を弁済し去っていったが、その時母親は胸をはだけ、泣き悲しんで瞻保に彼を育てた母乳の代償を求めた。瞻保は茫然自失して山中に入り、狂ったようにさまよった。3日後にその家や倉は火事で失われ、妻子は生活に窮し、瞻保は餓え凍えて死去するに至った(上巻第23縁)。

 同じく、古い都に住む孝養の心がない女性は、娘に飯を乞うた母親に対し、「あなたに施す飯はない」と拒絶した。母親には別に幼子がおり、道に落ちていた飯の包みを拾って飢えを凌いだが、その日の夜中に人が来て、「あなたの娘が胸に釘が刺さったと叫び、今にも死にそうだ」と告げる。女性は疲れ果てて助けに行くことができず、娘はついに死んでしまった(上巻第24縁)。

 武蔵国多摩郡(現・東京都西部)の吉志火麻呂(きしのひまろ)は、聖武天皇の時代に防人として3年間九州に赴いた。母・日下部真刀自(くさかべのまとじ)が火麻呂に随行し、妻は家に留まったが、その妻に会いたい火麻呂は母を殺し服喪を理由に帰郷することを思い立ち、法華経の講会に行くと偽って真刀自を連れ出し、山中で殺害を図った。まさにその首を切り落とそうとしたとき、大地が突然裂け、火麻呂は裂け目に落ち込んだ。母はその髪を掴み、天に祈って救おうとしたが、火麻呂は助からず、母はその髪を持ち帰って仏事を催した。不孝の罪にはすぐに報いが来るということだ(中巻第3縁)。

 殺されそうになっても子を救おうとする母親の姿勢が窺われるが、これとは逆に、慈愛のない母親を戒める説話も見える。

 越前国加賀郡(現・石川県金沢市の辺り)の横江成刀自女(よこえのなりとじめ)という女性は多淫で、沢山の男性と関係をもったが、年若くして亡くなった。宝亀元年(770)12月23日、加賀で暮らす寂林法師が夢で、大和の斑鳩より東に向かう途上、両乳が腫れて膿が出ている女性に出会う。その女性は横江成人の母と名乗り、乳を与えず子供を飢えさせた罪で乳が腫れる病気となった、成人にこのことを伝えて欲しいと頼んだ。夢から覚めた寂林が成人を捜し出してそのことを話すと、成人は姉に事情を確かめた上で、母親を怨むことなどないと告げ、仏像を造り写経してその罪を償った。再び寂林の夢に成刀自女が現れ、罪が赦されたと告げたという(下巻第16縁)。

 生前に子の物を盗んだことで牛に生まれ変わり、酷使されることになった母親の話を「続・牛にまつわる縁」で紹介したが、子の不孝だけでなく、親が子に不義理をはたらいても罪に堕ちるという観念が古代に存在したことが見て取られよう。

文学部

本郷 真紹特命教授

専門分野:日本古代史

主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。