平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。
髑髏(どくろ)といば、われわれ一人ひとりが「頭部」として備えているものの、頭蓋骨のみの姿形で動いたり喋ったりするというのは、怪談のネタとしてよく見かけるパターンと言える。一方で、近年のハロウィーンの仮面のように、何となくユーモラスな仕草で人の気持ちを和ませる効果もあり、その意味でユニークな存在と受け取られるものである。この髑髏にまつわる話が、『日本霊異記』に複数見えている。
山背の出身で元興寺(飛鳥寺)の僧である道登が、大化2年(646)に宇治橋を造るために大和と山背を往来していたところ、国境にある奈良山の渓で人畜に踏まれている髑髏を見かけ、従者の万侶(まろ)に命じて木の上にその髑髏を置かせた。同年の大晦日、万侶に会うために寺を訪れた人物が、万侶に対して「道登法師のお慈悲で平安の喜びを得たが、今晩でないとその恩に報いる事が出来ない」と告げる。客人に導かれてその自宅を訪れると、客人は自分のためのお供え物である飲食を万侶に分け与え、二人で会食した。
深夜になって客人は万侶に「私を殺した兄がやってくるので、早く寺に戻れ」と言う。万侶がその訳を尋ねると、「一緒に商売をしていた兄が、40斤ほどの銀を儲けた私を妬み、私を殺して銀を奪った。それ以後、長年の間往来の人畜が私の頭を踏みつけて通った。道登法師のお陰で救われたので、その恩返しにあなたを招いたのだ」と答えた。その時、客人の母と兄がやって来て、万侶を見て驚いた。客人から聞いた話を告げると、母は兄を罵倒し、万侶に礼を言って更に飲食を提供した。万侶は寺に戻ってこのことを道登に報告した。
上巻第12縁の髑髏の報恩譚であるが、同類の話は下巻の第27縁にも見られる。
宝亀9年(778)12月下旬に、備後国葦田郡大山里(現・広島県府中市の辺り)の品知牧人(ほむちのまきひと)が正月の物を買うために深津の市(現・福山市の辺り)に向かっていたところ、日が暮れたので葦田郡竹原で宿をとった。夜中に「目が痛い」という声がして、牧人は一晩中眠れずにいた。翌日見れば一つの髑髏があり、目の穴を竹が貫いていた。牧人はその竹を抜き、持参した干し飯を供えて「私に福を授けて下さい」と願った。
市に至ると、牧人は思い通りに買い物ができた。これは髑髏の報恩かと思い、帰路同じ竹原の宿に泊まると、髑髏は生前の姿を現して牧人に語った。
「私は葦田郡屋穴国(やなくに)郷の穴弟公(あなのおとぎみ)で、伯父の秋丸(あきまろ)に殺された。風が吹くたびに目が痛んだが、あなたのお陰で痛みを除かれた。その恩に報いようと思う。大晦日に屋穴国の我が家に来て欲しい。この日でないと報恩はできない。」
牧人がその家を訪れると、弟公の霊がお供え物を差し出し、牧人と会食した。残った物を包んで他の財物と共に牧人に与えたが、しばらくして霊は突然消え失せ、弟公の父母がその場にやって来た。弟公から聞いた話を告げると、父母は秋丸を捉えて問い質した。
「おまえは『弟公と共に市に行く途中、負債を取り立てられたので、弟公を捨て置いて戻った、弟公はすでに帰っているか』と問うたが、今聞いた話と違っているではないか。」
秋丸は隠し通すことができなくなり、「去年の12月下旬に元旦の物を買うために市に赴いたが、その時竹原で弟公を殺して馬と布と綿と塩を奪い、深津の市で馬は讃岐国の人に売り、他は自分が今使っている」と白状した。弟公が盗賊でなく秋丸に殺された事を知った両親は、秋丸が親密な肉親の弟であるため罪を公にせず、牧人には礼を告げて更に飲食でもてなした。
両縁ともに髑髏の報恩を題材としながら、そのモチーフは、恩を施した人物が福を受ける一方で殺害した人物が犯した罪を暴かれるという、「善因善果・悪因悪果」の教訓となっている。元旦を迎えて、故人のための飲食が準備され共食する習慣があったことが推し測られるが、いずれも殺害した犯人は髑髏の近親という設定で、罪の報いについては、肉親である故か厳しいものとなっていない。この点、当時の社会で同類の犯罪がしばしば生じていたと見られるものの、肉親に対する科罰については、現代と異なり寛容な扱いがなされたと受け取られよう。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。