平安時代の初めに成立した『日本霊異記』は、薬師寺の景戒という僧侶が著した仏教説話集で、上中下の三巻からなり、それぞれの序文と共に、合わせて116の説話が収められています。仏教に関する内容のものが大半で、荒唐無稽の奇瑞譚も含まれますが、そこには今日、本書でしか知り得ない各地の社会の様子が窺われ、極めて貴重で興味深い史料と言えます。本シリーズでは、改めてこの『日本霊異記』の説話から、古代の日本を探ってみたいと思います。
律令国家は僧尼の管理を図り、その生活を規制した。大宝令や養老令に、唐の道僧格(どうそうきゃく)を範として僧尼令という篇目が盛り込まれたが、その作音楽条では、「およそ僧尼、音楽を作(な)し、及び博戯せらば、百日の苦使。碁・琴は制する限りにあらず」とされている。音楽を作ったり賭け事をしたりするのは禁じられ、違反した僧尼には100日間の強制労働が課される一方、碁と琴は規制されなかった。
『懐風藻』に二首の漢詩を遺す弁正(べんじょう)は秦氏の出身で、大宝2年(702)遣唐執節使・粟田真人の一行に加わって唐(正確には武則天が皇帝であった周)に渡った。そこで、やがて即位して玄宗皇帝となる李隆基と出会い、囲碁が巧みなことでその寵遇を得た。この弁正の子である秦朝元もまた、天平5年(733)に遣唐使として唐に遣わされた際、父親との親交により時の玄宗皇帝から厚遇されたという。
後世、中国の唐から日本に囲碁を伝えたのは、入唐留学を修し、天平7年(735)に帰朝し多くの貴重な文献等を将来した吉備真備と言われた。平安後期の作にかかる「吉備大臣入唐絵巻」にも、真備が唐の名人と対局する姿が描かれるが、実際には真備の入唐以前から囲碁は日本にもたらされ、人々の嗜むところとなっていた。正倉院御物にも、碁盤や碁石が伝えられている。
碁を打つ僧の姿は、『日本霊異記』上巻第19縁に見受けられる。
山背国に住む私度(未公認の出家者)の沙弥が俗人と対局していると、乞食の僧が現れ、法華経を誦しながら布施を求めた。それを聞いた沙弥は嘲って笑い、口を歪め、わざと訛って乞食僧の口真似をした。碁の相手をしていた俗人は一手打つたびに「恐ろしいことだ」とつぶやいたが、対局ごとに俗人が勝ち、沙弥は全て敗れた。この時突然沙弥の口が歪み、医師が治療しても治らなかった。法華経の普賢菩薩勧発品に「もし軽蔑して笑う者があれば、歯は欠け、唇は醜くなり、鼻は平たく、手足はねじ曲がって、目も異常な状態になるだろう」とあるのは、まさにこの事を言っているのである。たとえ悪鬼に取り憑かれ、訳の分からぬ事を多く口にしたとしても、絶対に経をたもつ者を誹謗してはいけない。くれぐれも口を慎まねばならない。
よく似たモチーフは中巻第18縁にも認められる。
8世紀中葉の天平年間、山背国相楽郡(現・京都府相楽郡、木津川市)に名も知れぬ一人の俗人がいた。同じ郡にある高麗寺で、いつも法華経を誦している栄常という僧としばらく碁を打った。栄常は一手打つごとに「栄常師の一手だ」と口にしたが、俗人はその姿を嘲り、わざと口を歪め、口真似をして「栄常師の一手だ」と繰り返した。するとたちまち口が歪み、俗人は手で顎を押さえて寺の外に飛び出した。程なくして地に倒れ込み、死んでしまった。これを見聞きした人は、「刑罰を加えた訳ではなくても、心で嘲りながら口真似をすれば、その口は歪み、すぐに死を迎えることになる。ましてや、僧に怨みの心を抱いて刑罰を加えるなどすれば、どうなることであろうか」と言った。法華経に「賢い僧と愚かな僧が同列の席にいることはできない。また長髪の僧が俗衣を着て髪を剃らずにいても、賢者であれば同列の席で同じ器を使ってはならない。もし強いて同列の席にいれば、銅炭の上で鉄の塊を呑み地獄に堕ちるだろう」とあるのは、この事を言っているのである。
前者では、乞食の僧ではあるが法華経の持経者を軽蔑し侮辱した事に対する報い、後者では、法華経の持経者である賢僧を侮辱した事に対する報いが説かれ、法華経を常に唱える者を尊敬すべきを訴えている。しかし、舞台となっているのは共に囲碁の対局であり、俗人との接触が規制されていた出家者にとっては、貴重な交流の場となっていた。しかも、入唐僧・弁正のように、その機会を通じて有力者の知遇を得ている点は興味深い。
文学部
本郷 真紹特命教授
専門分野:日本古代史
主たる研究課題は、7~9世紀の日本古代律令国家の宗教政策、地域における宗教交渉過程(仏教と神祇信仰の関係)、古代宗教制度の史的意義、古代王権の宗教的性格 ほか。