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摂津の風土記

Vol.2

摂津ゆかりの人々
継体天皇と今城塚

 茨木市は、摂津国の北部、北摂と呼ばれる地域に該当する。この北摂に最もゆかりの深い古代史上の人物と言えば、6世紀初頭に即位したとされる継体天皇であろう。

 武烈天皇が崩御した後、朝廷の有力者であった大連・大伴金村を中心に後継天皇について議論され、当初丹波にいた仲哀天皇の五世孫にあたる倭彦(やまとひこ)王が候補に挙げられたが、王は自身を迎えに来た軍兵に恐れをなし、何処かへ逃亡してしまう。そこで、代わって白羽の矢が立ったのが、越前の三国(みくに)にいた、応神天皇五世孫という男大迹(おおど)王であった。

 『日本書紀』によれば、男大迹王は河内の樟葉宮(くずはのみや、伝・大阪府枚方市)に入り、ここで即位して継体天皇となる。そして、大連・大伴金村、同・物部麁鹿火(あらかひ)、大臣・許勢男人(こせのおひと)といった、先代からの朝廷の要人を引き続き登用したが、その4年後に山背の筒城(つづき、伝・京都府京田辺市)、さらにその7年後には山背の弟国(おとくに、伝・京都府長岡京市)へと宮を遷し、即位20年目にしてようやく大和に入り、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、伝・奈良県桜井市)に居したとされている。

 天皇自身がすぐに本拠とすべき大和に入らなかったのは、ヤマト朝廷自体が安定せず、その内部に継体天皇を拒絶する勢力が存在したのではないかという意見がある。さらには、そもそも遠方の越前から、応神天皇の五世孫なる人物が迎えられたということ自体が極めて不自然で、越前・近江を基盤とし、尾張にまで影響をもっていた男大迹王が、畿内に新たな王権をたてたとする見解も出されているが、継体天皇陵の可能性が高い今城塚(いましろづか)古墳の出土品から、継体天皇は、生産力や軍事力に直結する鉄資源を保有し、強い権力を有したことが窺われる。 

 継体天皇の治世は国の内外共に激動の時代で、朝鮮半島の情勢は変動著しく、任那(みまな)と称された、ヤマト朝廷と深い関係をもった半島南部の地域の四県が百済に割譲され、たびたび戦乱が生じている。その情勢とも関連して、新羅と結んだ筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)による反乱が北九州で勃発し、朝鮮半島遠征の途上にあった近江毛野(おうみのけの)の軍が妨害される事態に陥ったが、継体天皇の朝廷はこれを鎮圧し、この地に直轄地である屯倉(みやけ)を設置している。

 磐余宮に入り4年半ほどして、継体天皇はこの地で崩御した。その陵墓は摂津・島上郡の三嶋藍野陵(みしまあいののみささぎ)とされ、現在は茨木市太田(おおだ)の茶臼山古墳がこれに比定されている。ところが、この古墳は5世紀中頃に築造された前方後円墳で、年代が合わず、かつ太田は島上郡でなく島下郡であるため、その東に位置する今城塚古墳(高槻市郡家新町)の方が、継体天皇の陵墓に相応しいと考えられている。いずれにせよ、通例の大和・河内と異なり、唯一摂津の地に天皇陵が営まれたことは、継体天皇の特異性を示唆するように受け取られよう。

 このような朝廷の混乱は、継体天皇崩後も継続した。記紀には、安閑ー宣化ー欽明と、継体天皇の皇子である三兄弟が巡に即位したように記されているが、その年代等には矛盾する部分も大きく、安閑・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し対立していた可能性も指摘され、議論を呼んでいる。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史