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摂津の風土記

Vol.5

摂津ゆかりの人々
渡辺綱と茨木童子

 この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば

 自身の権勢を誇る歌を詠ったことで有名な藤原道長による摂関政治の時代、この道長に仕えた武士団の棟梁に、源頼光(よりみつ)という人物がいた。その父・満仲(みつなか)は清和天皇の曾孫で、藤原摂関家に仕え、諸国の受領(ずりょう、任国に赴いた国司の最高責任者)を歴任し、のち摂津の多田(現兵庫県川西市)に土着し本拠とする。ここで結成された武士団を摂津源氏と呼び、その流れから、やがて鎌倉に幕府を開く源頼朝が出ることになる。

 源頼光も父と同様に摂関家に多くの寄進を行って信任を厚くし、受領に任じられると共に、朝廷や摂関家の警護に当たった。彼の下には屈強な武士が多く集ったが、中でも頼光の四天王といわれる渡辺綱・坂田金時(金太郎のモデルとされる)・碓井貞光・卜部季武の四人は有名で、頼光はこれらの武士を率いて、丹波の大江山に住み多くの子女を掠うなど悪事を働いていた酒呑童子(しゅてんどうじ)の退治に赴いたという伝説が語り継がれている。

 山伏を装った源頼光の一行は、巧みに酒呑童子の元に入り込み、共に酒を酌み交わした後、酔って寝入った酒呑童子の首をはね、平安京に凱旋した。この時、酒呑童子の手下として大江山で暮らしていたとされるのが茨木童子で、四天王の一人・渡辺綱と戦ったが、かろうじてその場を遁れたという。

 茨木童子は、その名は出身地である摂津・茨木に由来し、水尾村(現茨木市水尾、OICの東方)で生誕し、月遅れであったことから、生まれながらにして歯が生え揃い、異様な形態をした大きな童子であったと伝える。あるいは、摂津の川辺郡(現兵庫県尼崎市)の生まれで、茨木村に棄てられていたのを酒呑童子に拾われたともいわれる。この茨木童子と渡辺綱との戦いが、のちに様々な形の伝承を生むことになった。

 ある伝では、戦いの舞台は大江山でなく、京の一条戻り橋で、女性に化けた童子が渡辺綱を連れ去ろうとして逆に腕を切り落とされ、以後それを取り戻すべく、渡辺綱の邸を窺ったという。ついには、綱の伯母を装った鬼すなわち茨木童子により腕は奪い返されることになる。また別の伝では、綱と童子の格闘が展開したのは、平安京の玄関である羅城門(羅生門)とされている。

 いずれにせよ、渡辺綱に腕を切り落とされた茨木童子が、躍起となってその取り返しをはかるというモチーフは共通しているが、腕を奪還したあと、童子が何処に赴き、どのような生活を送ったかといった点については定かでない。

 茨木市では、観光特任大使「いばらき童子」なるキャラクター(ゆるキャラ)が設定され、鬼の形態で金棒をもつ「いばらき童子」の彫像が市内に建てられ、またその絵の入ったクリアファイルやエコバッグが販売されている。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史