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摂津の風土記

Vol.6

会報2020年 夏号掲載
【第二シリーズ】摂津の古社寺
四天王寺(その1)

 587年、用明天皇が崩御すると、朝廷内で対立していた大臣(おおおみ)の蘇我馬子と大連(おおむらじ)の物部守屋が、ついに武力衝突するに至った。泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇)や額田部(ぬかたべ)皇女(推古天皇)など主な皇族は、蘇我馬子の妹の産んだ子であったことから蘇我馬子の側に立ち、用明天皇の子・聖徳太子(廐戸[うまやど]皇子)もまた、蘇我方についた。蘇我方の軍勢が大和より河内に進軍して守屋の拠点を討った際、聖徳太子は自ら四天王の像を刻んで戦勝を祈願し、勝利の暁に、四天王のために寺院を建立することを誓願したという。

 蘇我方の勝利に終わったこの戦闘ののち、摂津の難波に、四天王寺が建立される。『日本書紀』には、推古元年(593)難波の荒陵(あらはか)に四天王寺を造り始めたとあるが、この年聖徳太子が推古天皇より皇太子の地位につけられ、政務全般を委ねられたとされることから、誓願より6年を経たこの年が四天王寺の創建にふさわしい年とされたのであろう。

 その立地については、現在地と異なり、北方の難波宮跡に近い地点であったとする説や、以前からこの地に存在した寺院を転じたとする説などがあり、不明な部分も大きい。出土する古瓦から推察される限りでは、四天王寺の建築は、588年に蘇我馬子が創建した飛鳥寺や、推古天皇の豊浦(とゆら)宮跡に建立されたと考えられる豊浦寺、607年に聖徳太子が創建したとされる斑鳩寺(法隆寺)などの寺院よりも時代が下ると見られるが、『日本書紀』に、聖徳太子が崩じた翌年(623)に、新羅から贈られた金塔や舎利などを四天王寺に納めたとされているので、この頃には塔や金堂はできあがっていたと思われる。

 四天王寺の伽藍は長い年月をかけて整備され、中門・塔・金堂・講堂が南から北に向けて一直線上に並び、中門と講堂にとりつく回廊で囲む形となった。このような伽藍配置を四天王寺式と呼び、法隆寺の古伽藍(若草伽藍)も同じ配置をとる。このころの大規模寺院の造営には、朝鮮半島から渡来した工人の集団が関わったが、四天王寺の伽藍配置は、百済の都・扶余にあった軍守里廃寺と類似したものであることが指摘されている。

 では何故、朝廷の所在した大和より離れて、摂津・難波の地に四天王寺が設けられたのであろうか。まず考えられるのは、この難波の地が交通の要衝で、来朝する外国使節の上陸地点であったことから、彼らに朝廷の権威を示す目的をもったことである。大阪湾の海上から仰ぎ見る台地上に豪壮な建造物が聳え、来航した賓客に強く印象づける効果を期待したのであり、大型古墳の果たした役割と共通する意義を見て取ることができよう。

 四天王寺は、聖徳太子の創建した寺院として崇敬されてきているが、近年一部に、否定的な見解も出されている。しかし、遣隋使の派遣に代表される推古朝の外交政策に太子が大きく関わっていたとすれば、難波という地の性格から、この地に太子による寺院の設置が目論まれて当然とも受け取られる。もともとそのような性格を有した寺院であったが故に、新羅から贈られた文物もこの寺院に納められたのであり、やはり最古にして最先端の文化拠点の一つであったのだろう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史