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摂津の風土記

Vol.7

【第二シリーズ】摂津の古社寺
四天王寺(その2)

 乙巳の変(645)による蘇我本宗家滅亡ののち、新たに即位した孝徳天皇は難波に新都を造営し、ここを拠点に大化の改新と呼ばれる政治改革を志向した。その難波宮建設により、四天王寺はこれと並び立つ施設となる。かつて推古天皇についで即位した舒明天皇が百済宮と百済寺の併設を図ったように、当時は宮と寺院をセットで置くことが意識されたと見られ、四天王寺についても、難波遷都により一層の整備が図られたことが想定される。

 孝徳天皇自身、『日本書紀』に「仏法を尊び」と評されたように、仏教の導入を積極的に推し進め、白雉元年(650)には、難波の味経宮(あじふのみや)に二千百余名の僧尼を集めて一切経を読ませ、同時に、朝廷の庭に二千七百余の灯を点じて、新たに造営された難波長柄豊碕宮の地鎮を仏教の作法で行ったとされる。四天王寺に関しては、これに先立つ大化4年(748)に、左大臣の任にあった阿倍内麻呂により、僧尼が四天王寺に集められて仏像四体を塔内に安置し、また釈迦の浄土である霊鷲山(りょうじゅせん)の像が造られたという。

 ところで、四天王寺建立の意義について今一つ考えられるのは、587年に滅亡した物部氏の保有していた田地や奴婢が四天王寺に施入されていることで、資産管理の機関という性格も有した可能性が存在する。物部氏は、その拠点とした河内や摂津に莫大な資産を保有しており、同じく物部氏より継承した資産を権力の基盤としたと言われる蘇我馬子の孫・入鹿が、聖徳太子の一族を攻め滅ぼし、また、その入鹿が645年に暗殺されたのち、難波の地に新たな都が置かれたのも、あるいはこの資産の行方と関係するかも知れない。

 奈良時代には、近江の崇福寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺といった寺院と並び、四天王寺は官寺としての扱いを受けた。平安時代になって、火災等により伽藍は被害を受けたが、その都度復興が図られ、今日まで伽藍の形態も変わることなく受け継がれてきた。このように四天王寺の存続を支えたのは、言うまでもなく、日本仏教の祖とされた聖徳太子に対する信仰である。その関係から、日本の仏教史上に名を残す高僧には、四天王寺との関係を窺わせる者が多く見受けられる。代表的な人物は、平安時代の初期に天台宗を開いた最澄である。

 最澄は弘仁7年(816)に四天王寺に参詣し、五言律詩を作して聖徳太子の廟に奉じている。最澄の開いた天台宗は、法華経を根本経典とするが、この法華経を推古天皇に講説し、『法華経義疏』という注釈書を著したとされるのが聖徳太子で、太子は中国・天台宗を開いた智顗智顗(ちぎ)の師である慧思(えし)の生まれ変わりとされた。このような法華経と太子信仰を媒介として、四天王寺は天台宗との関係を強め、平安時代に天台宗が隆盛するに伴い、多くの信仰を集めた。

 さらに、延暦寺を中心に阿弥陀浄土の信仰が広く普及すると、四天王寺は、その西門から大阪湾を展望し、西方極楽浄土への往生を希求する場とされたが、浄土宗の祖である法然や、浄土真宗の親鸞もまた、四天王寺に参籠したと言われている。

 現在の伽藍は大半が第二次大戦後に再建されたものであるが、院政期の代表的な絵画作品である国宝『扇面法華経冊子(扇面古写経)』や、根本本と後醍醐天皇宸翰本の二点がある国宝『四天王寺縁起』など、四天王寺には貴重な文化財が数多く伝わっている。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史