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摂津の風土記

Vol.8

【第二シリーズ】摂津の古社寺
生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)

 最初の正史である『日本書紀』には、天皇の宗教に対する姿勢に触れた部分がある。その一つ、大化元年(645)に生じた蘇我入鹿暗殺のクーデター(乙巳の変)ののち即位した孝徳天皇については、「仏法を尊び神道を軽んず。生国魂社の樹を斮(き)るの類これなり」とされている。孝徳天皇といえば、大化の改新と呼ばれる、新たな国家体制の構築を目指して打ち出された政治方針を宣した人物として有名で、新設された摂津の難波宮でさまざまな改革が試みられ、これが律令体制の基盤となったと説かれる。その難波宮の造営のために、生国魂神社の社叢の樹木を伐ったことから、やや批判めいた意を含めて「神道を軽んず」とされたのであろう。

 現在の生国魂神社は難波大社(なにわのおおやしろ)とも称され、大阪地下鉄・谷町線の谷町九丁目駅の西南に位置する。もとは、同じ上町台地上で、より北方の難波宮が営まれた地の付近に所在したとされ、以後その周辺は、中世後期に浄土真宗中興の祖とされる蓮如が大坂本願寺(以前は石山本願寺とされたが、近年の研究で、この名称は妥当でないと言われる)を設置し、織田信長との合戦で本願寺がこの地を退去すると、その跡地に豊臣秀吉が大坂城を築き、生国魂神社の地も、時々の情勢に応じて変遷したことが指摘されている。

 伝承では、神武天皇の東征の折に、天皇が難波津での上陸に際して石山碕に創建した神社といわれ、生島(いくしま)神と足島(たるしま)神という二柱を祭神とした。9世紀初頭に成立した『延喜式』には、「摂津国坐生国咲国魂神社二座」とあり、生国魂神と咲国魂神がそれぞれ生島神・足島神に相当すると見なされるが、この二神は、平安時代に宮中で生島巫(いくしまのみかんなぎ)と呼ばれた巫女により祭られていた。生島・足島は大八洲(おおやしま)を意味する語で、生島神・足島神は日本の国土そのものを神格化した存在と受け取られる。

 この二神に関連する祭祀として、平安前期、嘉祥3年(850)の文徳天皇の時から鎌倉時代にかけて行われた、八十島祭(やそしままつり)というものがある。これは天皇の即位時に行われた儀礼の一つで、大嘗祭の翌年に摂津・難波でとり行われることになっていた。天皇に近侍する宮人(くにん、女性の官人)の典侍が祭使に任じられ、生島巫同行の上、天皇の衣服を入れた箱を持して摂津・難波津に赴く。そこに築かれた祭壇で、祭使は持参した箱を琴の音に合わせて揺り動かし、多数の供物を海に投げ入れる。そののち、帰京して、持ち帰った衣服を天皇に奉るという次第になっている。

 日本の国土を象徴する生島・足島二神を対象に行われた神事であることから、その目的は、国土そのものの魂、大八洲の霊を、新たに即位した天皇の玉体に扶植し、国土統治の権限を保証することにあったと考えられている。11月の寅の日に宮中にて行われた鎮魂祭という祭祀や、正月の御斎会(ごさいえ)という宮中の仏事に合わせて行われた後七日御修法(ごしちにちのみしほ)でも、天皇の衣服が祈願の対象として用いられた。衣服には着用する人の魂が乗り移ると観念され、天皇の衣服に対する祈願は、天皇自身に対する祈願と同等の作用があると受け取られたのである。

 生国魂神社は、恒例の即位儀礼として八十島祭が確立する以前から、生島・足島という大八洲の神を祭る場として、摂津・難波に行幸する天皇と密接な関係を有していたと推測される。八十島という語も、難波宮や生国魂神社の所在した上町台地から西方の難波津を眺めた際のイメージを髣髴させるものと言えよう。

文学部

本郷 真紹教授

専門分野:日本古代史